『Dr.スランプ』『ドラゴンボール』2作だけの鳥山明が世界レベルの漫画家になれた理由
『Dr.スランプ』『ドラゴンボール』の鳥山明
鳥山明は、『Dr.スランプ』と『ドラゴンボール』の2作の人だった。
もちろんそれ以外の作品も描いている。
『COWA!』があるし『カジカ』『SAND LAND』に『銀河パトロール ジャコ』もある。ドラゴンクエストのデザインもしている。その仕事エリアは広かった。
でも、やはり漫画家・鳥山明といえば『Dr.スランプ』と『ドラゴンボール』になってしまうだろう。
ほかに長編がない。しかたない。
あらためて、『COWA!』くらいの、14話ほどの、単行本1冊くらいの世界を作るのが、もともと鳥山明の描きたいものだったのではないか、と、ふと、おもってしまう。
漫画「ニューウエーブ」の時代
1980年『Dr.スランプ』が登場したとき、その洗練された絵に多くの人が驚いた。
1979年、大友克洋の単行本『ショートピース』によって度肝を抜かれた人たちが、次は予想もしない方向から出現した鳥山明の絵に驚愕したのだ。
まさに時代が変わったことを実感した。
手塚治虫の『新宝島』から35年、まさに漫画「ニューウエーブ」の時代が始まったのだと鳥山明が知らせてくれた。
漫画「ニューウエーブ」の代表は大友克洋であるが、ここに鳥山明が数えられることはあまりない。
1970年代が持っていた「頭でっかちの空気」を引きずっていたのがいわゆるニューウエーブ世代であり、そのエリアにおいてあたらしい漫画を打ち立てようとしていた。当然それは、少年少女向けのものではなく、青年のための漫画世界に向けて主張されたものだった。
作風や思想的に鳥山明はここに入れられないが、漫画の歴史を広く眺めるぶんには、同じ流れのなかにあるとおもう。
地上からすこし浮かんでいるような場所で描かれている
鳥山明の絵は、ある意味、浮世離れしていた。
地上からすこしだけ浮かんでいるような場所で描かれているような作品で、独特の世界をつくりだしていた。
都市的でもなかった。
1980年に入ったころから、「東京」という存在が特別な意味をもちはじめ、他の都市を引き離して圧倒的な存在感を持って1980年代独特のカルチャーを牽引するのだが、鳥山明の世界はそれと離れたところにあった。
鳥山明と村上春樹のデビュー時期
『Dr.スランプ』と『ドラゴンボール』の舞台は、架空世界でありながら、都市部ではない。そもそも鳥山明本人が地元で仕事を続けており、都市的な存在ではなかった。
それでいて、彼の描く絵はアメリカン・コミックスの香りが強く、そこはおそらく本人も強く意識したところだろうが、読んでいる者をして「ここではない世界」に連れていってくれる力が強かったのだ。
文学世界で似たような世界を構築していた村上春樹とデビュー時期が近いのも(村上春樹1979年、鳥山明1980年)いまとなっては何だか納得する。世の中がまさにそういうもの(戦争経験世代の言葉でいうならバタくさいもの=バターくさいもの)を欲しがっていたからだろう。
社会現象となった『Dr.スランプ』
『Dr.スランプ』は1981年にアニメ化され、大人気となった。その異様な人気ぶりは社会現象となり、テレビのワイドショーでも特集を組まれていた。
アラレちゃんの出現は社会現象だったのだ。
『Dr.スランプ』の連載は1984年まで、足かけ5年であった。
1984年の週刊少年ジャンプ39号で連載が終わり、その年のうち、51号から『ドラゴンボール』が始まった。休んでいる時間が異様に短い(たぶん休めていない)。
週刊少年ジャンプが600万部刷られていた時代
この『ドラゴンボール』が連載されていた1984年から1995年というのは、日本の経済が異様に調子に乗っていた時代でもある。
漫画そのものが異様に人気があり、週刊少年ジャンプは毎号600万部刷られていた。日本史上、紙の雑誌がもっとも売れていた時期でもあった。
ただ、この時期、大学の漫画研究会には入部してくる部員がどんどん少なくなり、「おたく」に対する風当たりがもっとも厳しかった時代でもある。
漫画を描く大学生は「ネクラ」と言われ、ネアカな連中の相手にされなかった。漫研部員は「クラスのふつうフレンドには漫研に入っていることは隠しています」と言っていた。ネアカのネクラに対する攻撃性は、陰キャに対する陽キャの攻撃より強かったようにおもう。
漫画文化全体に対する距離感が、いまとはずいぶんと違っていたのだ。
日本経済の一翼を担っているような鳥山明
鳥山明は、この時代の日本経済の一翼を担っているような存在でもあった。
個人で背負うには、かなり大変なものである。
『ドラゴンボール』を読んでいると、何度も終わりたがっているのに、諸事情から引き延ばされているのではないか、とおもわされることがたびたびあった。
強い敵を倒しても、さらに強い敵が現れ、それをやっと倒したとおもったら、もうひとつ強い敵が出てきて、それを倒したところまさかの……という展開は、昔からあるジャンプ漫画のパターンではあるが(ジャンプ漫画の祖だとも言える『男一匹ガキ大将』がそのパターンであった)、『ドラゴンボール』は、漫画を読んでいて「……そろそろもう止めたいんだけど……なあ……」という著者の呻きが聞こえてきそうだった。
のちになってコミックスでまとめて読んでも、それは感じる。
無理矢理引き延ばされた『男一匹ガキ大将』
ただ、がんばって引き延ばしているにしては、無理がない。
さすが鳥山明だな、ともおもう。
週刊少年ジャンプ誌上、作者はやめたがっているのに編集部が無理矢理続けさせた漫画は数あるとおもわれるが、それがもっとも顕著だったのは、やはり『男一匹ガキ大将』だろう。悪しき前例となっているところがある。
あれは、富士の裾野の決戦で終わっていれば、きれいに仕上がった漫画だっただろうとおもわれるのだが、完と書かれた文字をつづくと修正させ、そこから引き延ばしに引き延ばしたというのは知られている話である。
最後はかなり大変なものが出来上がっていた。
心地いい絵を描きたい人
『ドラゴンボール』はだから丁寧に話し合いが行われ、何とかソフトランディングする終わり方を(墜落するような終わり方ではなく)繰り返し考えられていたのだろう。
それなりにきちんと終わっている。
鳥山明は、お話を聞かせたいというより、心地いい絵を描きたい人だったんだろうな、というのは当時から想像していたことである。もちろん心地いい絵を描くには、その絵にいたるおもしろい展開を考えないといけないから、お話に割く労力も大変なものになるが、でもたぶん「自分にとって心地よい絵を描くこと」をもっとも大事にしているんだろう、と信じていた。
アイデアのストックはあと三百ある
たとえば手塚治虫は、つねにおもしろい話を聞かせたい、という欲求で描き続けていた人だった。亡くなる少し前に「アイデアのストックは、まだあと三百はある」と言っていたそうで、つまり「おもいついたおもしろいおはなしを聞かせたい」という欲求の塊で突き進んだ作家であった。
漫画家も、絵のうまさもさることながら、やはり作品として評価されるのは「おもしろさ」である。もともと漫画家に強く求められていたのは「ストーリーテラー」としての資質であった。
絵のうまさで世を圧倒した大友克洋と鳥山明
ただ鳥山明と、それに先行する大友克洋は、この2人は、「絵のうまさ」で読む人を圧倒して、漫画世界を変えて、絵の力だけで世界を納得させていった漫画家だったと、これは同時代人として、そうおもっている。
絵のうまさで世界を変えた稀有な存在である。
絵のうまさで売れている漫画家はいるが、その力で世界征服した人物はあまり見あたらない、鳥山明と大友克洋は、絵で、世界を征服したと、私はおもっている。
自分にとって心地いい絵を描き続けようとした
もちろん『ドラゴンボール』は読んでいて、手が止まらないようなおもしろさがある。
ストーリーも魅力的だ。
でも、他を圧倒する作品となったのは、絵の力によるものだろう。
それは作者本人が、自分にとって心地いい絵を描き続けようとした、その神がかり的な努力によるものである。
描かなくてはいけない作品
『ドラゴンボール』が終わって鳥山明はもう漫画を描かないのではないか、という声を聞いたときは、かなり無理して描いていたのだろう、と得心するしかなかった。
連載終了当時40歳とまだ若かったから、どこかで気が変わって、もう1作、長編漫画を描くかも知れないという期待はあったが、やはり間をあけるとそんな修羅場を迎える気持ちは薄らいでいくのだろう。3,4か月の連載ものがいくつか描かれたあとは、漫画制作の一戦から退いたという気配が強かった。
描かなくてはいけない作品を抱えていたわけではない、ということだろうか。
『Dr.スランプ』『ドラゴンボール』の2作は、編集者の示唆や指導はかなりあったとおもわれるが、しかしあの作品世界はたぶん鳥山明そのものである。
引き延ばしたにしても、描きたいように描き切っていると見える。
手塚治虫のように、まだアイデアが300ほどある、と聞かされても、これはこれで、その300はどうなったのだ、というおもいにとらわれて、なかなか心苦しいところがある。
鳥山明は、描けるものはほぼだいたい描いたのだろう。
何となくそう信じられる。