【九州三国志】智勇兼備の将、吉弘鑑理!大友宗麟に仕えた忠臣、その波乱の生涯
豊後国大友氏の庶流として生まれた吉弘鑑理(よしひろ あきまさ)は、田原氏の分家筋に連なる名門の武将でした。
幼少期に父・吉弘氏直を失うと、わずか数歳で家督を継ぎます。
以後、主君・大友義鑑の偏諱を受け「鑑直」を名乗り、後に宗麟に仕え「鑑理」と改名しました。
幼少時からその智勇は際立ち、肥後菊池氏との合戦や小原鑑元の反乱鎮圧などで武功を挙げ、宗麟から厚い信任を得ます。
やがて臼杵鑑速や吉岡長増とともに「大友三老」に列せられ、宗麟の側近として政務や軍事の要職を担うようになりました。
鑑理は宗麟の命を受け、筑前や豊前の各地で戦火をくぐり抜けました。
永禄3年(1560年)の宗像氏貞討伐、第四次門司城の戦いでは、毛利軍を相手に奮戦し、門司城代・冷泉元豊らを討ち取る大戦果を挙げます。
また、永禄12年(1569年)の多々良浜の戦いでは、戸次鑑連(後の立花道雪)とともに龍造寺隆信を撃破しましたが、発病したためさらなる進撃を断念せざるを得ませんでした。
このため、龍造寺氏を滅ぼす絶好の機会を逸したとされています。
その後、筑前の宝満城攻めや立花鑑載らの謀反鎮圧にも参加し、北九州の戦線で重要な役割を果たしましたが、元亀2年(1571年)に病に倒れ、惜しまれつつこの世を去りました。
主君・宗麟はその死を深く悼み、「あらゆる治療を尽くしたが叶わなかった」とその無念を表したと伝わります。
鑑理の死後、その職務は嫡男・吉弘鎮信が引き継ぎましたが、鑑理が予定されていた立花山城督の任務は、後に戸次鑑連が担うこととなります。
鑑理の不在がもたらした損失は大きく、後年の宗麟の苦境をさらに深めたとも言われているのです。
その名将としての生涯は、智勇と忠義の象徴として、今なお語り継がれています。