時代の遺物・ブログが復活の兆し。SNSを捨てて《書く》を取り戻す。
最近、ブログが復活の兆しを見せています。実際、Facebookを見ていても、自分が書いたブログ記事のリンクを貼った投稿が目につきます。
この10年ほどSNSが猛威を振るい出してからというもの、どこか元気のない印象だったブログ。いったいなぜ、活況を呈し始めたのでしょうか?
mixiにTwitter…。SNSに飲まれたブログ
およそ20年ほど前、個人の情報発信と言えばブログでした。
芸能人はブログの更新回数を誇り、起業した人はまずはブログを立ち上げる。面白いブログは億単位のPVを稼ぎ、本として出版されたり、アルファブロガーなどと言われてスター扱いされたり。
巷の個人が普通にアメブロを更新しては、足跡やコメントを付け合う。それが一般的だった時代が確かにあったわけです。
ところが、もっと軽い気持ちで日記が書けるmixiや、140字以内で今の気持ちをぽんぽんつぶやけるTwitter、写真付きでキラキラムードに浸れるInstagramが次々と登場し、人々の関心は徐々にそちらへと移ってしまいました。
「手軽さ」と言う面で敗北を喫したブログは、しだいに色あせたものに。今や、ブログの書き手は芸能人や読者モデル、有名ブロガーがほとんど。閲覧しているユーザーは多いのですが、個人で書き続けている人は非常にまれです。
彼女がブログを止めた理由
ある女子大学生も、昔はブログを書いて友達と訪問し合っていたけれど、SNSが出てきてからは止めてしまったと言います。
「ブログは、SNSと比べるとやっぱり面倒なところがあって。記事を書いて、投稿するまでのハードルが正直高い。今は、くだらない思いつきとか、ふと思ったことなんかをTwitterで呟いて、それでもう満足しちゃいます。長い文章ともなると、年に数回Facebookで投稿する程度ですね。」
なるほど、僕自身もSNSのあまりの便利さ(書きやすさと即時のレスポンス)、ブログを書くのがすっかりめんどうになってしまいました。各種情報発信はSNSが中心で、ブログは日々のSNSの発信をまとめたものに。あくまで、SNSをチェックしていない人のための受け皿という位置づけです。
アツい思いをすくいあげる場所
そんな中、どうしてブログが再び盛り上がってきたのでしょうか。大きな理由は、「長い文章になるぐらいのアツい思い」をすくいあげる場所としての再評価、でしょう。
確かに、手軽に思いを投稿できるツールは世の中に沢山あります。「それで十分、満足」という上記の彼女のような人も沢山いることでしょう。しかし、それでは物足りない!と血気盛んな人もまだまだいたというわけです。
SNSではどうにも収まりきらない思い、ぼやき、創作意欲、発信欲。どろどろとした重たくアツい文章は、結局の所、「手軽じゃない」ブログと相性がよく、そういう層がふたたびブログに帰ってきたということでしょう。
SNSに刺激された「書きたい欲」
「ブログに帰ってきた」という人以外にも、「ブログなんてやってなかったけど、SNSで書きたい欲が刺激された」という人もいます。
ブログなんて、自己主張したい人がやるもの。別に書くこともないし、言いたいこともない、自分には無関係の世界……。そう思っていた人に限って、SNSを始めてみたら、意外と「書く」楽しさに気づくものです。
リアクションがうれしい、いいね!がうれしい。面白いと言われ、文才があると言われ、「まとまったものが読みたい」などとコメントされれば、その気にならないほうが難しい。
その結果、もっとたっぷりと書きたい、と、ブログを開設するわけです。
長文を直接さらしたくない、という恥と気遣い
さらに言うと、ブログには、普段使っているSNSからワンクッション置くことが出来る、という効用もあります。
というのも、最近個人ブログを立ち上げた友人は「Facebookで他人のタイムラインにお邪魔してしまうのは申し訳ない」という繊細な気持ちを吐露します。
書きたいこと、読んで欲しいことはある。書いたら、人に読んでもらいたい。でも直接SNSにあげると強制的に見せているようではばかられる。だから、リンクを貼るにとどめるので、どうぞ興味ある人だけ読んでください。嫌だったら無視してくださいまし……。
そんな、見て欲しいような、見て欲しくないような微妙な気づかいが、「ブログを書いてリンクをSNSに貼る」という行動に現れているわけです。
SNS疲れの受け皿
あるいはこういう見方もできるでしょう。
SNSはその名の通り、社交(social)であり、交流です。言っていいことと悪いことがあるし、見たくないものも見なくてはいけない。「いいね!の相互交換」という儀礼も飽きると疲れます。便利で楽しいけれど、牧歌的じゃない。もっと知られざるところで、言いたいことだけ言いたい。
そんなSNSに疲れ、日々の人間関係に疲れた人が、いろいろとリセットして安息の地を求めた結果、ブログにたどり着いたという側面もありそうです。
ブログとSNSのハイブリッド=note
ちなみに、数年前に立ち上がったサービス、noteは、そんな微妙なニーズをくみ取る狙いがあったのかもしれません。
noteの画面はどこかクリエイティブでおしゃれ。記事入力画面もとても洗練されていて使いやすい。まとまった文章、写真やマンガなど、まさにひと頃のブログのように「創作欲」の高い人が利用している印象です(課金をしやすいというのも、画期的です)。
SNSの要素もあって、投稿者・読者たちは、「いいね!」をつけたり、コメントできたりします。InstagramやTwitterのようにハッシュタグを設定できるのもSNS的。
私自身、小説やコラムをぽつぽつと投稿しているのですが、確かに実感としても、noteに書いているようなことを、そのままFacebookに投稿できるかというと、躊躇してしまいます。
同じ「書く」でも、場の雰囲気やユーザビリティによって、その内容は変わってくるのは避けられないことです。
SNSが狂気の芽を摘んだ
私が常々思っていることがあります。それは「SNSのおかげで、創作芸術は衰退したのでは」ということです。以下、暴論を承知で述べてみます。
思春期のころを思い出してください。毎日、毎秒、悶々とする。自分のこと、世界のこと、友達のこと、夢のことで頭がいっぱい。好きな子のこと、部活のこと、あこがれのアーティスト……。そんなことが積もり積もって叫び出したくなった昔の若者は、何をしたかというと、日記を書いたのです。
死ぬ前に絶対始末しないと、死ぬに死ねない。そんな恥ずかしい日記を書きしるし、詩や曲を作り、深夜ともなれば、出さないラブレターを書く。そうした鬱屈した狂気こそが、古今東西、文学を初めとするや芸術作品の原動力となってきました。
それがどうでしょう。この20年ほどで、そうした気持ちの行き場はすっかり様変わりしました。
モヤモヤしたらつぶやいて終了。将来のことで頭がおかしくなったら投稿して解消。友人からいいね!をもらい、承認欲求が満たされれば、なんとか正気を保って生きていける。
もちろんそれはとてもいいことです。悩める青少年の救済措置としてはとても素晴らしい。
ところがその反面、SNSでそうやって処理されなければ立派な作品になったかもしれない、人の心のどろどろ・鬱屈さが、きれいに掃除されてしまっている。そのことが残念なようにも思うのです。
まるで近未来SF小説に出てくる、「政府が人々を洗脳統治するために開発した電脳システム」かのよう。その結果(?)、現代においてもちろん小説は売れないし、小説家や物書き志望の若者も減っています。
長文でしか晴れない思いもある
さくっとつぶやく。ぱっと写真を撮ってあげる。ざっと記事を閲覧して分かった気になる……。
そうした行動は、実に便利です。さらに言えば、楽しい。
ですがそうではなく、自分の頭の中にあるモヤッとしたものを、なんとか手に取れるよう書いて、消して、また書く。人に読ませたい、感想を聞きたい。何度となくグルグルと手を加え、書き殴り、全部消してイチから書き始める。そういった一連の動作でしか解消されない、悩み・思い・恨み・つらみ・希望・夢も、間違いなく存在するわけです。
書くとは考える、ということであり、伝えるとは生きる、ということなのですから。
ですから、SNS時代にブログが復活しつつあることは、人々が考える力を再び持ち始めたニュースとして、個人的には好ましく思っている次第です。
……ふぅ。やはり、こうやってこの記事を書いてみて、「なるほど自分はこんなことを考えていたのか」と、もやもやが晴れました。ああ、スッキリした(笑)。長文におつきあいいただき、ありがとうございました。
五百田 達成(作家・心理カウンセラー)