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織田信長に才覚を認められ登用されたものの、出自すらわからない3人の戦国武将

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(提供:イメージマート)

 昨今は就職に際して、学歴、国籍、性別は関係のない時代となった。戦国時代も同じことで、織田信長は出自を問わず有能な武将を登用したので、そのうち3人を紹介することにしよう。

◎明智光秀(?~1582)

 明智光秀は土岐明智氏の出身といわれているが、確固たる証拠があるわけではない。永禄11年(1568)、織田信長が足利義昭を推戴して上洛した頃から、光秀は姿を見せる。以降、光秀は信長の命に応じて各地を転戦し、大いに軍功を挙げた。

 フロイス『日本史』は、光秀が非常に残忍な性格であり、信長の歓心を買うのが得意だったと書いている。しかし、やがて光秀は信長に不満をいだくようになり、本能寺の変で信長を死に追いやった。その動機は諸説あり、今も議論が続いている。

◎荒木村重(1535~1586)

 荒木村重の出自は諸説あるが、父の実在すら史料で確認できない人物である。もともと村重は池田勝正の家臣だったが、のちに織田信長に才覚を認められ、その配下に加わった。その後、村重は有岡城を拠点とし、摂津西部の支配を任されたのである。

 天正6年(1578)、村重は突如として信長に叛旗を翻した。その理由は諸説あるが、毛利輝元、足利義昭、大坂本願寺からの誘いがあったのは事実である。しかし、村重は信長との戦いに敗北し、逃亡。毛利氏を頼ったあと茶人となり、堺で亡くなった。

◎羽柴(豊臣)秀吉(1537~1598)

 羽柴(豊臣)秀吉の出自は、少なくとも武士ではなく、農民だったといわれている。秀吉が織田信長から登用された逸話はいくつもあるが、その軍事的才覚や行政手腕が評価されたので、登用されたのは疑いない。秀吉は信長の命に従って各地を転戦し、大いに軍功を挙げた。

 天正10年(1582)6月、信長が本能寺で明智光秀に急襲されると、秀吉はただちに光秀を討った、直後に開かれた清洲会議で、秀吉は主導権を握った。以降、秀吉は関白に就任するなどし、名実ともに天下人になったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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