ユーモアか、いじめか。「最悪の映画と演技」に贈るラジー賞が今意味することを考える
オスカーノミネーションの発表は、現地時間明日23日。そんな中、ひと足早く、最高の栄誉であるオスカーと正反対に当たるラジー賞の候補が発表された。
ラジー賞ことゴールデン・ラズベリー賞は、最悪の映画と演技に対して贈られるもの。創設は1981年で、今年は44回目となる。今年、最多ノミネーションを受けたのは、作品、監督、助演男優、助演女優、脚本などに食い込んだ「エクスペンダブルズ ニューブラッド」。この映画と作品部門を競うのは、「エクソシスト 信じる者」、「MEG ザ・モンスターズ2」、「シャザム!〜神々の怒り〜」、「プー あくまのくまさん」だ。演技部門には、「ザ・マザー:母という名の暗殺者」のジェニファー・ロペス、「シャザム!〜」のヘレン・ミレンとルーシー・リュー、「ゴーステッド」のクリス・エヴァンスとアナ・デ・アルマス、「ワイルド・スピード/ファイヤーブースト」のヴィン・ディーゼル、「アントマン&ワスプ:クアントマニア」のビル・マーレイ、「MEGザ・モンスターズ2 」のジェイソン・ステイサム、「ヴァチカンのエクソシスト」のラッセル・クロウなどの名前が並ぶ。
授賞式は、オスカーの前日。そういうところからもわかるように、この賞は、存在そのものがいわばパロディ的な位置付けだ。投票も、オスカーは、映画芸術科学アカデミーから招待を受けて会員になった、選ばれた人が行うのに対し、ラジーは年間たった40ドルを払えば誰でもできる(すでに会員になっている場合の更新料はもっと安い25ドル)。スタジオや配給会社が賞をもらうために戦略を練り、多額のお金をかけて必死でキャンペーンをし、俳優や監督、プロデューサーも、賞をもらっては舞台で嬉し泣きし、候補に漏れたら陰でこっそり悔し泣きをするアワードシーズンをやや皮肉り、ブラックな笑いと軽いネタを提供してきたのがラジーだ。
悪かったのは演技だけのせいなのか
しかし、時代が流れ、社会が変わった2024年、この賞の存在をどう受け止めるべきなのか、ちょっと微妙になってきたように筆者は感じている。
作品に関しては、年末に、業界サイトでベテランの批評家が「今年最もがっかりした映画」を挙げることはある。それは問題ないと思う。批評家は批評をするのが仕事で、とくにアメリカの批評家は、良くないと思ったら遠慮せずに批判する。プロの彼らが、1年を振り返り、しっかりした理由を挙げた上で、なぜいくつかの作品が満足できなかったのかを述べるのは、その延長といえる。
一方で、ラジーが、個人を名指しして最悪の演技と呼ぶのはどうか。投票した人たちに悪意はないにしても、言われたほうにしてみたら、意地悪、いじめのように感じるのではないだろうか。いじめ、ハラスメントなどについて社会的な意識が高まっている今の風潮に合っていると言えるのか、違和感、疑問を覚えるのだ。
昨年は、「炎の少女チャーリー」で主人公を演じた当時12歳のライアン・キーラ・アームストロングを「最悪の主演女優」部門に候補入りさせてしまい、批判を受けるというお粗末な事態も起きた。ラジー創設者のジョン・ウィルソンは謝罪し、アームストロングを本投票の候補から外した上で、今後、18歳未満は対象外とすると約束をしている。しかし、それでこの世界に入ったばかりの少女の傷ついた心は癒えたのだろうか。
大人の役者にしても、果たしてひどかったのは演技なのか、それ以外の要因が大きいのか、判断するのは容易ではない。脚本が悪く、せりふが不自然だったりしたならばそれは役者のせいではないし、何度もやったテイクの中でどれを使うかを決めるのは監督だ。ベン・アフレックは、自分で自分を監督することのメリットのひとつに、どのテイクを使うか選べることがあると語っていた。役者として出た映画で、違うものを使ってほしかったのにと思ったことは多々あるのだという。編集もまた、影響を及ぼす。もちろん、元から下手な役者はどうやったってごまかせないものだが、今年の候補にオスカー女優で誰もが尊敬するヘレン・ミレンが入ったのが彼女の実力の問題でないことは、明白だ。
セレブが不満を言っても共感は得られない
候補入りさせられてしまった俳優たちはみんなそう思っていることだろう。しかし、反論したり、抗議したりしても、「単なるジョークなのに」、「ユーモアのセンスがない」、「セレブはプライドが高い」と言われてしまうだけで、逆効果になりえる。お金をたっぷり稼ぎ、一般人よりずっと恵まれた生活を送っているセレブリティが不満を言ったところで、共感はしてもらえない。
事実、2005年に「キャットウーマン」で「最悪の主演女優」賞を受賞したハル・ベリーが堂々と授賞式に出席してトロフィーを受け取った時は、「かっこいい」と称賛の声が上がったものだ。後にベリーは、その時を振り返って、「みんな自分を真剣に受け止めがち。オスカーを受賞したら自分はみんなより上だと勘違いしてしまう。たまたまその年に、良いと思ってもらえる仕事をやっただけなのに」と語っている(ベリーは『キャットウーマン』が公開される2年前のオスカーで主演女優賞を受賞している)。さらに彼女は「トロフィーをもらいにオスカー授賞式に出席するなら、同じようにラジーにも出席できるはず。敗者になったことを受け入れられないなら、勝者にはなれない。私は自分を笑うために出席したの。その後、あのトロフィーは焼いたけれどね」とも述べた。
ベリーの言葉は説得力があるし、その心意気には感心させられる。だが、みんなが彼女のように大きく構えるべきだとは、決して思わない。アンフェアだと不満を抱き、怒る権利は、誰にでもある。
もう何年も前、筆者も参加したトム・クルーズのグループ取材で、ある記者が「宇宙戦争」でラジー賞を受賞した感想を質問したことがあった。その記者は軽い話題を振ったつもりだったのだろうが、クルーズはムッとした表情になり、「あれはすごくネガティブで、嫌い」と低い声で言って、場がしんとなったのを覚えている。
実際、「宇宙戦争」のクルーズはそんなにひどかっただろうか。あの映画は全世界で6億ドルを売り上げるヒットになったのだ。だが、この賞自体がまじめに受け止めるべきものではないのだから、そんな論議がなされることはない。そんなラジーは、今年もまた、オスカー前の箸休め的話題を提供する一方で、何人かの心をもやもやさせるのだろう。それはこれからも続いていくのだろうか。