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どうして織田信長は何回も居城を変えていったのか?

歴ブロ歴史の探求者

一般的に戦国大名たちは居城をほぼ変えずにいましたが、織田信長は那古野城⇒清洲城⇒小牧山城⇒岐阜城⇒安土城と状況に応じて居城を変えていました。

そこで今回はどうして信長は何度も居城を変えていったのかを考えてみます。

那古野城で幼少期を過ごし拠点を清洲城へ移動

織田信秀は那古野城を手に入れると幼い信長に譲りました。幼いながら那古野城主となった信長ですが、自分の意志で城を運営していくのは元服後だと思われます。

ここで信長は幼少期を過ごし、後に斎藤道三の娘と政略結婚をしました。

信長が家督を継ぎますが、この家督相続に清洲城の織田信友が異を唱え、信長の弟・織田信行を支持して対立しました。信長は反対勢力を一掃し清洲城を抑えると、鎌倉街道と伊勢街道が合流する交通の要で重要な拠点であったことから、そのまま居城としました。

美濃攻略のため小牧山城へ

清洲城に移った信長は弟のクーデターや桶狭間の戦いを経て頭角を表します。徳川家康との清洲同盟が成立すると美濃攻略のために動き出します。

美濃攻略には斎藤氏に従属した尾張北部の犬山城を抑えなければいけませんでした。しかし、丘に築かれた犬山城は山城で、攻略経験のない織田軍は事前に訓練が必要でした。

ところが、清洲には山がなく訓練が出来ないので、信長は小牧山に城を築くことを考えます。小牧山に新しく山城を築くことで訓練もでき犬山城攻略の足掛かりにもなり、おまけに美濃攻略の最終目標である稲葉山城も見える絶景地でもありました。

この小牧山城は岐阜城のつなぎ的な評価を受けてましたが、近年の発掘調査で城下町を作り、石垣を張り巡らせた城郭だった事がわかりました。おそらく信長はじっくりと腰をすえて犬山城・稲葉山城を攻略しようと考えていたのではないかと考えられます。

結果的に竹中半兵衛による稲葉山城乗っ取り事件を起因とした斎藤家の内部分裂が明るみとなり、小牧山城完成から4年後に信長は美濃を手に入れますが、事件がなければ長い付き合いになったかもしれません。

小牧山城への引越しエピソード

小牧山城の面白い引越しエピソードがあったので紹介します。

織田信長は小牧山へ拠点を移す際に家臣たちの反対を少しでも緩和させようと策を講じた記述が信長公記に書かれているので、わかりやすくまとめてみました。

信長は家老たちを連れて次の拠点となる険しい地形の二ノ宮山へ登りました。
山頂へ登り詰めた信長は、家老たちに具体的な建物の建築位置を指示したと言います。美濃攻略への足掛かりとして当初は二ノ宮山が選ばれていたのです。

清洲城は水運に恵まれた尾張の中心地。そんな都会から険しい二ノ宮山への移住計画はいくら殿の命令とは言え、不満をあらわにする者も少なくありませんでした。

移転が迫ってきたある日、ついに宿老たちが信長に再考を求めに来ます。信長は家臣一同・領民たちの不満を一通り聞いたのちに二ノ宮山の移転は取りやめ、小牧山に改める旨を言い渡します。

小牧山は清洲より北ではありますが二ノ宮山よりは南で険しい場所ではなく、平野部を見晴らすように山(小牧山)があり、近くに川も流れている場所でした。
この決定に家臣たちは驚きを隠せなかった様ですが、険しい二ノ宮山へ移住する気持ちだった人々もこの決定に喜び小牧山へと移住したのでした。

最初から小牧山に移転するつもりだった

このエピソードからいえることは、信長は居城を最初から二ノ宮山に移すつもりはないと言う事。小牧山も清洲よりは不便になるため、次なるミッションを遂行するモチベーションを維持するためにワザと不便極まりない山まで登り一芝居打ったのです。

そして、二ノ宮山の決定で皆の不安と不満をあおり、爆発しそうなタイミングで「みんなの意見を聞いて小牧山に変えようではないか」と進言を聞き入れたようにしました。

「二ノ宮山よりマシ」と思うだけで不思議と小牧山が魅力的な場所に見え、しかも信長が私たちの意見を聞き入れてくれたとなります。

出来すぎな話に感じますが、人の心をよく読んだ、なんとも上手な信長の人心掌握術だと思います。

岐阜城へ拠点を移動した背景

稲葉山の戦いで斎藤氏を討ち滅ぼした織田信長。信長は小牧山から稲葉山への拠点移動を決断し、城と町の名前を稲葉山から岐阜と命名しました。

岐阜城は金華山の頂上に建つ山城です。一般的に山城は水が限られ、物資は蓄積された分だけに限られており籠城には向きません。しかし、支城などの周りの領地が自分の支配下にあれば、攻撃側に与えられる時間が少ないため不落になる可能性は高くなります。

岐阜城の真価は山頂の本丸からの眺望性と地の利にあります。

金華山から望む長良川
金華山から望む長良川

写真の通りビルや住宅が建っている現在でもこの景色です。戦国時代にはもっとひらけた景色があり美濃への侵入者をいち早く見つけることができるでしょう。

さらに長良川の位置も絶妙で、そこで防衛ラインを形成して敵の侵入を食い止める事ができます。もし敵が河を渡ってきたとしても、広大な濃尾平野で打って出ることができるので十分に軍勢を整えることが可能です。

イメージとしては金華山ごと岐阜城を本丸として、木曽川と長良川を天然の堀として広大な濃尾平野とセットで防衛ラインを形成する天然の要塞みたいなものです。

このような考えのもと信長は、岐阜への居城移動を決断をしたのだと思います。

天下人・織田信長の安土城

1576年に信長は安土山に巨大な城の築城を開始します。

この頃になると畿内一帯を支配下に置いていましたが、居城を京に移すのではなく京と尾張の中間である安土に城を築きました。これには両方の経済圏を抑えるのと、琵琶湖の水運利用の目的があったとされます。軍事面では北陸街道と京への重要な場所に位置していた事から、上杉謙信や越前・加賀の一向一揆に備えるためとも言われています。

安土城はどの文献をみても豪華絢爛を誇っていたと書かれています。これまでのように戦うための城であれば、豪華絢爛にする必要は全くありません。安土城築城開始時点で周りが自分の支配圏だったので、おそらく安土で戦うということを想定していなかったのかもしれません。そこで信長は軍事より政治的な一面を持つ城を作りたかったのでしょう。

実際に安土城は町のどこからでも天主が見えるようにして権威を示しました。また、城下で相撲大会を開いたり、天主をライトアップし、正月には入場料を取って本丸御殿を見物できるイベントを開催していました。

しかし、安土城完成からわずか3年で信長は明智光秀に討たれ、この城が信長最後の居城となりました。

最近の研究で信長は大坂に拠点を移す計画もあったとされています。

この大坂に拠点を移す意図は、信長が討たれてしまい解明は困難です。しかし、これまでの過程でもっと適した場所に次々と拠点を変えていったというのは見ればわかります。

もし信長が生きていたら織田信長の大坂城を見ることができたかもしれませんね。

歴史の探求者

歴史好きが講じて歴史ブログを運営して約10年。暗記教科であまり好きでないと言う人も少なくないはずです。楽しく分かりやすく歴史を紹介していければと思います。歴史好きはもちろんあまり好きではない人も楽しめるような内容をお届けします。

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