かつて「クリーンなタカ派」と言われた安倍派(清和会)、「ダーティなタカ派」に転落
自民党の裏金問題はついに東京地検特捜部による安倍派、二階派事務所への家宅捜索に発展した。裏金については他派閥も同様とされるが、とりわけ安倍派(清和会、以下同)の関与が濃いとされ、安倍派閣僚の総交代など前代未聞の事態が続いているのは既報の通りである。今後の捜査の行方にあっては厳重な注意が必要であろう。
・かつて「クリーンなタカ派」と呼ばれた清和会
自民党の派閥は、きわめて大まかに言えば、吉田茂の薫陶を受けた宏池会と、同じく佐藤栄作-田中角栄のラインからなる旧田中派―のちの経世会系―平成研(現在の茂木派の系譜、以下旧田中派)という二つの「保守本流」派閥があり、対して1955年の保守合同に至る鳩山一郎の日本民主党の系統で、岸信介などを経由する清和会を「保守傍流」とする。
むろん、議員間の移り変わりや派閥の離合集散があるので必ずしもこの限りではないが、宏池会と旧田中派という二大主流派閥に対し、清和会が傍流として存在し、永らく自民党内での派閥抗争が繰り返されてきた。
この中で旧田中派は、田中角栄がそれを体現したように、戦後のいわば「成り上がり者」の色彩を色濃く持った議員が相対的に多く、それがゆえに数々の「政治とカネ」の問題を繰り返してきた。
国内政策では再分配、福祉国家路線。外交ではハト派路線が強かった旧田中派は、「成り上がり者」であるがゆえに、潤沢な政治資金の基盤を持たず、「黒い」政治資金を貪欲に必要とした。金権腐敗が生まれる土台は、旧田中派にある構造的な背景にこそあった。
そのため、比較的世襲議員や官僚出身者が多く、政策的には社民的でハト派とみなされた宏池会とは違い、旧田中派は「ダーティなハト派」と呼ばれた。
ロッキード事件、リクルート事件、佐川急便事件、日歯連事件。東京地検特捜部が総力を挙げて立件したこれらの大疑獄は、そのほとんどが旧田中派(のちの経世会系、平成研系)が主体となって関与していたものであった。
これに対し、清和会は戦前からの支配層が、戦後に継続された性格が濃い。特に1942年の翼賛選挙における翼賛会非推薦候補や、戦中に戦争遂行に協力したものが公職追放後、いわゆる「逆コース」によって政界に返り咲いた議員などの色彩が濃く、彼らの支持層も戦前からの地方における地主、地方財閥などといった旧態依然とした地元の有力者たちなどであった。
よって清和会の議員は、おおむねもともと政治資金が比較的潤沢であり、旧田中派に比べれば「黒い」政治資金を貪欲に必要としたわけではない。
このような派閥の特色から、かつて清和会は「クリーンなタカ派」と呼ばれた。国内政策では減税傾向、企業優遇、小さな政府。外交では親米、反共(反中国、親台湾)、タカ派を旨とし、1980年代にはサッチャリズムに影響されて新自由主義的立場を鮮明にしつつ、やがて小泉構造改革路線につながっていく。
・特捜部に狙い撃ちされてきた旧田中派
東京地検特捜部は、少なくともここ半世紀近く、自民党の疑獄に対しては旧田中派を狙い撃ちにしてきた。もっともロッキードについてはジャーナリスト・立花隆氏の功績が大であったが、実際に立件したのはとうぜん東京地検特捜部である。
「金権腐敗」を批判する世論が日増しに高まり、ロッキード事件の発覚は「政治不信」をたちまち引き起こした。次期総理・総裁は「クリーン」を旗印にしたが、旧田中派の金権体質は変わることなく、リクルート事件によって竹下、そして結果的には宮澤内閣が退陣した。
当時、宮澤喜一首相は宏池会出身であったが、竹下派(旧経世会)の影響を排除することができず、竹下派から離党した小沢一郎氏らによってついに55年体制が崩壊し、細川非自民連立政権が誕生する。
首班が宏池会出身だが、他派閥を震源とする疑獄によって政権全体が窮地に陥るのは、図らずも目下の岸田政権とのデジャブである。
東京地検特捜部が旧田中派を狙い撃ちにしてきたのは、恣意的なものではなく、実際に立件するに足る証拠が旧田中派に特に多かったからであるが、2010年、当時民主党幹事長であった小沢一郎氏の秘書らに対する、いわゆる陸山会事件は、「竹下派七奉行」のひとりと呼ばれた小沢一郎氏がキーマンだったことを考えれば、やはり東京地検特捜部の旧田中派の系譜への執着、とみることもできよう。小沢氏は本件について最高裁で無罪が確定している。
2001年に不人気だった森喜朗内閣に代わり、劇的な自民党総裁選を経て小泉純一郎政権(清和会)が誕生すると、小泉は「自民党をぶっ壊す」などとして人気を集めた。この時の「自民党」とは、自民党全体ではなく、旧田中派である。事実はどうであれ、旧田中派の金権体質は、不当な利益の誘導、特定企業との癒着としてのイメージが強く、守旧派とみなされ「抵抗勢力」と揶揄された。
今考えると、小泉のいった「抵抗勢力」との闘いとは、1970年代の角福戦争(旧田中派VS福田派=清和会)の平成版リベンジであった。旧田中派系統の多くの議員は離党を余儀なくされ、自民党が圧勝したいわゆる郵政選挙が行われた。
小泉時代には、2004年に日歯連事件が起こった。東京地検特捜部は、日歯連(日本歯科医師会)から橋本派(旧経世会系、平成研)への闇献金を立件し、橋本派にとどめが刺された格好となった。橋本龍太郎はこの事件の責任を取り派閥会長を辞任し、事件からほどない2006年に帰らぬ人となった。
このように考えると、今回の安倍派、二階派への東京地検特捜部の強制捜査は、かつて「政治とカネ」の問題は常に旧田中派やその系統が震源地となってきた、という経緯と逆になっている。戦後、とりわけ過去半世紀の自民党史を振り返ると、とくに清和会にメスが入るというのは、様々な意味で特筆すべき出来事といえる。
もちろん、裏金疑惑は他派閥にも及んでおり、自民党全体の問題である。しかし輪をかけて清和会へメスが入るのは、森、小泉、福田(康夫)、第一次安倍、第二次安倍と、平成・令和期になって実に20年弱、「清和会支配」が続いてきた副作用とみるべきであろう。
永らく「保守傍流」と言われ、非主流の憂き目にあってきた清和会は、派閥の性質という以上に、主流派に対して身ぎれいにしていかなければならないという「自律」の精神が、多少なりともあったのではないか。
むろんそれは、旧田中派の失敗を他山の石とする姿勢だったのかもしれない。だからこそ「タカ派」派閥である清和会は、「クリーンである」という一点において、時に「保守反動(戦前回帰的)」と揶揄されても存在価値を発揮し、生き残ってきた。
しかし「清和会支配」の20年間弱において、この感覚は弛緩・鈍麻し、崩壊しているように思える。清和会一強は、かつて清和会がそのタカ派的イデオロギーを発露する担保としての「身ぎれいさ」という「自律」の精神を弱体化させたのだろうか。もはや「ダーティなタカ派」となった清和会に、有権者はどれだけの信頼を寄せるのであろうか。(了、一部敬略)