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イタイイタイ病訴訟原告だった故・小松みよさんの多難な生涯を語り継ぐ元TVディレクター

若林朋子北陸発のライター/元新聞記者
イ病患者・小松みよさんの言葉を「ひとりがたり」する金澤敏子さん(筆者撮影)

 イタイイタイ病(以下、「イ病」と表記)は四大公害病の一つで、富山県の中央を流れる神通川流域にカドミウムが流出したことにより、甚大な健康被害をもたらした。患者はカドミウムの慢性中毒による腎臓障害と骨軟化症が起こり、骨折しやすくなる。患者とその家族は、鉱山の製錬に伴う未処理廃水を流した三井金属鉱業を訴え、裁判では原告の主張が全面的に認められた。

 この裁判の原告患者の1人だった小松みよさん(1918-1985年、66歳で死去)の生前の発言を集め、「ひとりがたり」で紹介しているのが元北日本放送ディレクターの金澤敏子さん(70)=富山県入善町在住=である。長らくテレビ・ラジオ番組や著書などで社会性のあるテーマについて発信してきたが、対面での肉声による表現にこだわり、県内で出前講演を始めた。小松さんの人生と裁判の経過を伝える40分間の語りを聴き、その思いに耳を傾けた。

身振り手振りで話す金澤さん(筆者撮影)
身振り手振りで話す金澤さん(筆者撮影)

 2021年6月30日、富山市にある富山県立イ病資料館で金澤さんによるひとりがたりが、「イタイイタイ病を語り継ぐ会」(代表運営委員・向井嘉之さん)の企画で行われた。一審勝訴からちょうど50年。「イ病との闘い 原告小松みよ」と題した語りは、救済を求める患者を鼓舞する歌「神通よ怒れ」を吟じて始まる。

「くしゃみすると体の骨がポキンと折れるがです」

「66年の人生、聞いて下さいませ。私は大正7年(1918年)11月23日、婦中町萩島(現在の富山市婦中町)で生まれました。(イ病に苦しむ)母の世話もしました。便器を当てるのも痛がるので体に触れないようにしたがです。親も姑も、みんなイタイイタイ病やちゃ。みんな悲惨な最期でしたよ。

 私は33歳で発症しました。胸に強い痛みを感じました。杖をついていると手が痛くなり、大事な田んぼもできなくなりました。くしゃみすると体の骨がポキン、ポキンと折れるがです。同じ病気の患者で体の骨、72カ所も折れた人おったがです」

痛みに耐える様子を表現(筆者撮影)
痛みに耐える様子を表現(筆者撮影)

 金澤さんは2018年2月に開催した「ドキュメントライブ 小松みよと日本の近代」で小松さんを演じ、「このストーリーを66年間の生涯に絞って伝えたい」と「ひとりがたり」の形式で企画。今年2月から始め、8月までに県内4カ所で講演した。

 語りは新聞・雑誌・テレビ報道によって残る小松さんのコメントから抜粋してある。金澤さんが苦悶の表情で「いたたた、たー」と語る様子は、本人が乗り移ったようだ。一方で、小松さんの死後に開店したショッピングセンターについても言及し、汚染された水田の位置を分かりやすく知らせるなど、現代に即した表現の工夫がある。

「縮まってしまった身長は2度と戻りません」

「奇病、風土病とささやかれておったこの病気ですが、昭和30年(1955年)8月4日付の富山新聞の記事がきっかけで、はじめて『イタイイタイ病』と呼ばれるようになりました。そして萩野病院で調査と治療が行われました。

 私は4年間、東京で入院生活を送りました。終わって古里の富山へ帰ってくるまで長かったちゃね。小学生の息子は中学生になっとった。でも東京で治療したからといって完全には治っていません。一度縮まってしまった私の身長は2度と元には戻りませんでした」

アクリル板を隔てての熱演(筆者撮影)
アクリル板を隔てての熱演(筆者撮影)

時には穏やかな表情も(筆者撮影)
時には穏やかな表情も(筆者撮影)

 小松さんはイ病発症後、身長が約30センチも縮んだ。体重は22キロまで落ちたそうだ。かつてイ病は感染すると恐れられた。また、火葬した患者の遺骨は箸で拾えないほどもろくなっていたという。患者の大多数は女性で、閉経後の中高年に発症するケースが多かったが、小松さんは汚染物質の混じった水を生まれた時から飲んでいたため30代で発症した。

 母・姑の痛みも背負い、公の場で毅然として発言を続けたため、いつのまにか原告患者のスポークスパーソンとなっていった。法廷でも患者として初めて思いを語っている。

「清流と信じていたのは地獄の水でした」

「清流と信じていた神通川の水、今から考えれば地獄の水でした。この苦しみを味わった者にしか分かりません。喉が渇いたら、ためらいなく川の水を飲みました。

 昭和46年(1971年)6月30日、富山地裁はカドミウムが原因であるという判決を下しました。50年前の今日やね。難しいことわかりませんけど、被害者が訴えて初めて勝った歴史的な裁判です。

 ところがですちゃ。喜びもつかの間。三井金属鉱業は高等裁判所に訴えたがです。『テレビに出るのは体が痛くないからだ』などと言われもしました。何で、こんな惨めな姿をさらすのかというと、公害病をなくしてほしいからです。自分がそんな思いをしたことないから、(非難に対して)そんなこと言えるがや」

ひとりがたりの会場に展示された取材を受ける小松さんの写真。撮影者は菅原政徳さん。取材者は当時、北日本放送の記者だった向井嘉之さん(筆者撮影)
ひとりがたりの会場に展示された取材を受ける小松さんの写真。撮影者は菅原政徳さん。取材者は当時、北日本放送の記者だった向井嘉之さん(筆者撮影)

 金澤さんは「小松さんの生涯から学んだのは、イ病は死ぬまでその人を苦しめ、人生の全てを壊すということ」と話す。語調には強い怒りや悲しみがにじむ。また小松さんは、悲壮な覚悟で加害企業や世間と対峙した人だと伝わってくるが、ひとりがたりで披露される写真の表情は穏やかだ。

「公害は人間が人間を押しつぶすもの」

「振り返ると私の人生はイ病との戦いだったちゃね。私のような苦しみを子や孫、嫁に経験させたくないがです。対策とってもらわんと。だから、私はイ病の生き証人として話をするがです。

 入院していたある日、テレビ局の記者が『公害は将来なくなると思いますか』と聞いてきました。私は『会社が発展すると次々と公害が出てくるから、なくなることはないと思います』と答えました。公害は人間が人間を押しつぶすものです。でも、押しつぶされた人間を救うのも人間だと思います。

 昭和60年(1985年)3月27日が小松みよの命日です。66歳の命でした。神通川流域には明治時代から500人ぐらいのイ病の人の骨が埋まっています。苦しんでいる人がおったこと、この後もずっとずっと忘れんといてくださいませ」

イ病資料館で行われたで金澤さんによる「ひとりがたり」(筆者撮影)
イ病資料館で行われたで金澤さんによる「ひとりがたり」(筆者撮影)

富山県内どこででも出前講演

 2021年7月下旬、富山市岩瀬地区の喫茶店「にしのみや」で、ひとりがたりを終えた金澤さんにインタビューした。5人以上のグループで出前講演を受け付け、要請があれば富山県内どこへでも出向く。「1人で会場へ行き、全てを1人で表現できる身軽さが、ひとりがたりの良さ」とのこと。新型コロナウイルスの感染防止対策には十分配慮して熱演を重ねている。

 金澤さんは1970年、北日本放送にアナウンサーとして入社した。女性の嘱託制度から、ようやく正社員として採用され始めたころだった。結婚や2度の出産の後も夫の祖母や両親の支援を得て仕事を続け、33歳以降はディレクターとして教育番組の制作などにあたった。「取材・編集・スーパー・ナレーションと全部、自分でできるのが楽しい」。1人で何役もこなすひとりがたりのアイデアはディレクター経験がもとになっている。

富山市岩瀬地区の喫茶店「にしのみや」で講演する金澤さん(筆者撮影)
富山市岩瀬地区の喫茶店「にしのみや」で講演する金澤さん(筆者撮影)

「カメラを回さないで取材対象者と長い時間を過ごし、『この人に話せば怒りや苦しみを伝えてもらえる』と思ってもらえるかどうかが肝心」と話す。いじめによって自殺した女子中学生の遺族に密着取材し、番組を作ったこともあった。遺族とは今も交流があり、母親は喫茶店でのひとりがたりに足を運んでくれた。困難を抱えた人に寄り添い、その声を伝えるというスタンスは退職後も変わらない。

 金澤さんはテレビ局在籍時に小松さんと直接、面識はなかった。しかし、イ病をテーマに取材したことはある。『米なれど』という番組が印象に残っているという。汚染田が復元される以前、そこで実った米は国が買い上げ、図画工作などで使われる「のり」の原料などになったそうだ。汚染田の復元を待つ間、後継者がほかの仕事に就いてしまい、農業をやめてしまう家もあった。金澤さんは「汚染米を国が買い上げてくれても、食べられない米を作るなんて農家じゃない」と嘆く声を何度も聞いた。

「次世代の人たちに何かを伝えたい」

 20歳下の筆者から見て金澤さんは、「地方のマスコミ業界に女性が少なかったころから頑張ってきた“大先輩”」である。イ病というテーマから少し脱線し、テレビ業界の変遷についても聞いた。1970年から2011年まで現場で見てきたテレビ業界の隆盛について「放映すると視聴者の反響がすぐにあり、テレビの影響力が大きい時代だった」と話す。

『KNBスペシャル 人生これおわら』(北日本放送)で第36回ギャラクシー賞テレビ部門大賞を受賞し、贈賞式に臨む金澤さん(1999年5月撮影、金澤さん提供)
『KNBスペシャル 人生これおわら』(北日本放送)で第36回ギャラクシー賞テレビ部門大賞を受賞し、贈賞式に臨む金澤さん(1999年5月撮影、金澤さん提供)

「ローカルですから、番組を作る予算は十分にありませんし、時間をじっくりかけることも困難です。近年はテレビ報道に限りませんが、取材相手の苦しみや怒りに寄り添うこともなく番組を作っているケースが多々あるように思います。またドキュメンタリー番組が放送されるのは深夜です。こんな時間に誰が見てくれるのだろうと思います。良質の番組は作りにくく、見られにくくなっているのです」

 2011年に退社した後は「ドキュメンタリスト」という肩書きで活動している。「社会とつながり、次世代の人たちに何かを伝えたい」という思いがある。ひとりがたりを始めた理由も「次世代に伝えたいから」だった。ただし、ひとりがたりは自身が発信源となって少人数に対面で直接伝える手法。マスメディアと対照的であることが興味深い。

50年前、小松さんの肉声が全国に発信

 ひとりがたりのシナリオは金澤さんがまとめた。訴訟当時、小松さんの言動は新聞やテレビで大きく報道された。また雑誌『女性公論』(中央公論社)に手記が連載され、映画監督の大島渚ら多くの著名人もインタビューに訪れて雑誌に寄稿するなど、肉声は全国に発信された。これらを引用した書籍『イタイイタイ病との闘い/原告 小松みよ/提訴そして、公害病認定から五〇年』(向井嘉之著、能登印刷出版部)を参考に構成している。

「30分では言い足りないし、1時間だと間延びするから40分以内に」と、語る内容を厳選した。小松さんとその近親者の女性が被ったイ病患者の苦痛だけでなく、「治療をしたら完全に治ったと思われた」「補償金が出たから金持ちになったと言う人がいた」など、訴訟に関わったために生じた誤解による苦悩も伝えている。

イ病裁判の流れ(『甦った豊かな水と大地/イタイイタイ病に学ぶ』より)
イ病裁判の流れ(『甦った豊かな水と大地/イタイイタイ病に学ぶ』より)

 金澤さんによると、イ病訴訟の特徴は、鉱業法109条(無過失責任規定)をもとに賠償責任を追及し、勝訴したことにある。新潟の第2水俣病や四日市ぜんそくの訴訟は民法709条を根拠としていたので、当時の公害裁判において新たな試金石として注目されていた。

 1972年8月にイ病第1次訴訟控訴審で住民側が完全勝訴した。2012年3月には対策地域の土壌復元が完工、2013年12月には被害者団体が三井金属鉱業と「神通川流域カドミウム問題の全面解決に関する合意書」に調印。1967年に初めて患者が認定されて以来、2021年5月末までの認定患者は200人で、生存者は1人のみとなった。金澤さんは「イ病を過去の歴史にしてはいけない」と話す。

「イ病に認定されない要観察の方もこれまで343人いて、生存者は1人だけ。認定されるには厳しい条件を満たさねばならず、骨の一部を切り取って検査するなど、体に大きな負担がかかります。今もカドミウムが原因で数多くの人がカドミウム腎症で苦しんでいます。カドミウム腎症を公害と認め、救済する仕組みが必要ではないでしょうか」

11月に絵本『みよさんのたたかいとねがい』発行

 イ病を語り継ぐ会は11月、『みよさんのたたかいとねがい』という絵本を発行予定である。小松さんの人生を語り伝えることが使命であり、若者や子どもがイ病の歴史について理解を深めてもらう内容である。

「同じ過ちを2度と繰り返さぬよう、次の世代や未来の人にイ病について知らせ、再び汚染させないように監視し続けること。それが大事です」

 イ病をどう伝えていくのか。イ病訴訟の一審勝訴から50年の節目に模索を続ける金澤さんに学ぶことは多い。

富山市岩瀬地区の喫茶店「にしのみや」で講演を終えた後、インタビューに応じる金澤さん(筆者撮影)
富山市岩瀬地区の喫茶店「にしのみや」で講演を終えた後、インタビューに応じる金澤さん(筆者撮影)

 金澤 敏子(かなざわ・としこ) 1951年6月生まれ、富山県入善町出身、70歳。1970年に魚津高校を卒業し、北日本放送にアナウンサーとして入社。33歳からはディレクターとしてテレビ、ラジオのドキュメンタリーを多く手掛けた。NNNドキュメント’96『赤紙配達人――ある兵事係の証言』で芸術祭賞放送部門優秀賞、芸術選奨文部大臣新人賞、アジアテレビ映像祭沖縄賞、民間放送連盟賞テレビ教養部門優秀賞、放送文化基金個人賞など受賞。『KNBスペシャル 人生これおわら』で1999年にギャラクシー賞テレビ部門大賞受賞。2011年に定年退職した後は「ドキュメンタリスト」として取材や市民活動に取り組む。「イタイイタイ病を語り継ぐ会」運営委員、「細川嘉六ふるさと研究会」代表。

※参考文献など

・『イタイイタイ病との闘い/原告 小松みよ/提訴そして、公害病認定から五〇年』(向井嘉之著、能登印刷出版部、2018年1月)

・『イタイイタイ病の記憶』(松波淳一著、桂書房、2002年12月)

・『死の川と戦う――イタイイタイ病を追って』(八田清信著、偕成社文庫、1983年10月)

・『甦った豊かな水と大地/イタイイタイ病に学ぶ』(富山県発行、神通川流域カドミウム被害団体連絡協議会制作、2017年3月)

・『よみがえった美しい水と豊かな大地/イタイイタイ病に学ぶ』(富山県発行、2012年3月)

・『私のイタイイタイ病ノート』(松波淳一著、1969年8月)

・『ビジュアル富山百科』(富山新聞社、1994年2月)

・富山県立イタイイタイ病資料館ホームページ

https://www.pref.toyama.jp/1291/kurashi/kenkou/iryou/1291/index.html

・イタイイタイ病対策協議会 清流会館ホームページ

https://ibyou-seiryukaikan.org/

※イ病についてははこんな記事も書いています。

・イタイイタイ病一審勝訴50年 「死の川」と戦う患者と家族を見つめた記者

https://news.yahoo.co.jp/byline/wakabayashitomoko/20210604-00241234

北陸発のライター/元新聞記者

1971年富山市生まれ、同市在住。元北國・富山新聞記者。1993年から2000年までスポーツ、2001年以降は教育・研究・医療などを担当した。2012年に退社しフリーランスとなる。雑誌・書籍・Webメディアで執筆。ニュースサイトは「東洋経済オンライン」、医療者向けの「m3.com」、動物愛護の「sippo」、「AERA dot.」など。広報誌「里親だより」(全国里親会発行)の編集にも携わる。富山を拠点に各地へ出かけ、気になるテーマ・人物を取材している。近年、興味を持って取り組んでいるテーマは児童福祉、性教育、医療・介護、動物愛護など。魅力的な人・場所・出来事との出会いを記事にしていきたい。

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