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約30年前に起きた日野不倫殺人事件の無期懲役の女性受刑者から届いた衝撃の手紙

篠田博之月刊『創』編集長
逮捕当時の新聞記事(筆者撮影)

無期懲役の北村受刑者から衝撃の手紙

 死刑執行まで12年間つきあった埼玉連続幼女殺害事件の宮﨑勤元死刑囚を始め、重大事件の当事者と10年20年つきあうというのは、私の場合、そう珍しいことではない。今回報告する日野不倫殺人事件の北村有紀恵受刑者とも、彼女が未決の時代からのつきあいだから、もう20年以上になる。

 事件は1993年に起きた。有紀恵さんは不倫相手の男性宅に放火し、結果的に何の罪もない2人の子どもが亡くなってしまうという、凄惨な事件だった。

 翌年2月に逮捕されてからずっと獄中生活を送っている有紀恵さんは、月刊『創』(つくる)を愛読し、感想などを手紙で送ってくれる。同時に、彼女が起こした事件とどう向き合い、罪を償おうとしているかについても心情をつづってくる。

 北村有紀恵さんの刑は無期懲役なのだが、これは文字通り、刑期に終わりがない懲役だ。ただ仮釈放という制度があって、罪の償いの状況によっては市民社会に復帰することができる。もちろん刑は続くから保護観察を受けたままなのだが、刑務所を出られるというのは大きなことだ。

 人間は罪を犯したとしても、それと向き合うことで変わり得る、しかも社会復帰という望みがあるからこそ積極的にそうしようという気持ちも起きる。仮釈放というのはなかなか意義深い制度だと思う。

 そしてここでこの事件を通して考えてほしいのは、その無期懲役をめぐる現状、事実上の「終身刑」になっているという、その問題点についてだ。北村さんのケースは、まさにそれが浮き彫りになっている事例だ。

「有紀恵が帰るまでは生きていないと」

 その意味で今回、8月5日の消印で彼女から届いた手紙は、私にとってはいささか衝撃だった。父親が昨年末に脳梗塞で倒れ、幸い回復したものの、自宅で今度は転倒して入院したという内容だった。父親とは私も何度も会っている。その父親が脳梗塞で倒れた時点で有紀恵さんが知らせてこなかったのは、病状について様子を見ようという判断と、私に心配をかけまいとする気持ちからだったのかもしれない。

 手紙を見て、驚いて実家に電話をした。母親が電話に出て、父親は現在まだ入院中で、折しもコロナの感染拡大で面会もできない状態だという。都内の実家には両親が二人暮らしだったのだが、家の中で転倒した時、89歳の父親だけでなく母親も高齢なので助け起こすこともできず、たまたま訪ねてきた人がいたため、父親を運ぶことができたのだという。

 父親は病院でも、有紀恵が帰ってくるまではとにかく生きていなければいけないと語っているという。それはもう10年ほど前から両親が絶えず言っていたことだ。有紀恵さんがせっかく仮釈放されても、帰る家がなければ、本人の生きる気力さえ失われてしまうかもしれない。  

 有紀恵さんの事件を機に、一家の運命は暗転した。父親は、娘の罪を詫びるためにいろいろな所へ足を運んだ。拒否されながらも被害者の自宅にも何度も謝罪に行った。そして、とにかく娘が帰ってくるまでは生き続ける、それが両親の人生の課題となった。 

 有紀恵さんの代理人でもある古畑恒雄弁護士にメールを送ると、既に状況を把握していてやはり心配していた。古畑弁護士は、元検事で、法務省保護局長を経て弁護士になった。死刑問題や無期懲役の問題に取り組んでおり、有紀恵さんをサポートする代理人になっていただくことは、何年か前に私がお願いした。

 有紀恵さんは事件の後、獄中でキリスト教を信仰するようになり、所属教会が彼女の支援を行っていた。何とかして仮釈放を実現させるというのが知人や支援者の望みだった。彼女の父親と、キリスト教関係者と3人で古畑弁護士事務所を訪ねて、古畑弁護士と話し、サポートに応じてくれることになった時は、大きな前進と喜んだ。

 その古畑弁護士が指摘する無期懲役の現状と問題点については、下記ヤフーニュースにインタビュー記事を掲げたのでご覧いただきたい。

https://news.yahoo.co.jp/articles/162c882f98c7fe770ac04f73dd4578075e037f04

無期懲役の終身刑化は多くの弊害をもたらしている  古畑恒雄

 発売中の月刊『創』10月号には、事件以降、有紀恵さんとその家族がどんな経緯をたどってきたかを、2017年8月号に書いた記事に加筆修正して掲載した。以前掲載した時も、とても大きな反響を呼んだ。

 ここではその長いレポートの主要部分を紹介しよう。関心ある方はぜひ、『創』の原文をご覧になってほしい。

逮捕を機に家族全員が苦難に突き落とされた

 都内下町に一軒家を構える北村家に、突然警察が訪れたのは1994年2月5日のことだった。

 対応した父親は話を聞いて仰天した。大学を卒業して大手メーカーに就職し、都下の日野市で一人暮らしを始めた娘・有紀恵さんに、殺人放火の容疑がかかっているというのだった。前年12月14日に日野市で発生した事件だったが、もう2カ月前のことで、あまり覚えてもいなかった。

「何も知らなかったものだから本当にびっくりして、最初は何かの間違いじゃないかと思いました」

 父親はそう語る。

 有紀恵さんには早い段階から嫌疑がかかっていたから、その日まで警察が逮捕に踏み切らなかったのは不思議だった。その日訪れた警察は、父親に娘を説得して自首させるよう働きかけたのだった。その方がその後の取り調べがスムーズにいくと考えたのだろう。

 家族はそのまま警察と一緒に娘のアパートへ車を走らせた。そして話をしたところ、有紀恵さんは、自分が犯人であることを認めたのだった。

「一晩中家族で泣き明かしましたよ。このまま家族全員で死んでしまおうかという考えも頭をよぎりました。でも結局、娘を説得して、次の日、警察の車で私が付き添って出頭したんです」

 逮捕された有紀恵さんはもちろんだが、両親と妹の家族3人も、その日から塗炭の苦しみに突き落とされることになったのだった。

 裁判は1994年5月13日、東京地裁八王子支部で始まった。そして1996年1月に無期懲役の判決が出された。被告は控訴するが、97年に東京高裁で控訴棄却、2001年、最高裁で上告も棄却された。

 有紀恵さんの手記「『不倫放火殺人OL』と呼ばれて…」は2002年3月号から『創』に掲載された。原稿は彼女が下獄する前に受け取っていたのだが、本人の希望で掲載は服役してからとなった。

 娘が逮捕されて大々的な報道が始まってからは、家族は外出もままならないような生活を余儀なくされた。父親が自宅で経営していた製版所は、閉鎖することになった。娘2人の結婚資金としてためていた財産は、裁判費用や被害者遺族などへの補償にあてられた。火災にあった団地住民へもお詫びと金銭的補償が行われた。

 刑事裁判と別に被害者遺族から民事訴訟も起こされ、1000万円以上を既に納めているのだが、まだ多額の賠償金が残ったままだ。私財を全て投げうっても、十分な補償はできなかった。家計も破たんし、両親はその後の半生を償いのために費やすことになった。

二度の中絶でひどく傷ついた

 ここで事件そのものについてもう少し説明しておこう。

 有紀恵さんが会社の上司だった高田さん(仮名)と交際を始めたのは1990年頃だった。彼は当時、妻と子どもがいたのだが、2人は深い関係になり、有紀恵さんに、妻と別れて結婚する約束をするまでになった。有紀恵さんは92年、彼の子どもを身ごもったのだが、中絶を余儀なくされる。男性は避妊にも非協力的で、その後有紀恵さんは93年にも再び妊娠。二度にわたって中絶する結果になって、ひどく傷つくことになった。

 その93年5月、2人の関係が妻に発覚する。何気なく自宅電話のリダイヤルボタンを押したら知らない女性が出たことに妻は不審を抱き、夫を追及して、不倫の事実を知ることになった。そして、目の前で有紀恵さんに別れを告げる電話をするように夫に迫ったのだった。

 その男性からの電話によって、有紀恵さんは、妻と離婚の話を進めているという男性の言葉が全て嘘だったことを知らされたのだった。

 男性の優柔不断な態度は、事態を悪化させた。妻に非難されて有紀恵さんと別れることを約束し、「それならばはっきりと別れ話をしてきてほしい」と言われて有紀恵さんのアパートを訪れる。ところがそこで有紀恵さんと話すうちに、前言を翻して「女房と別れるからもう少し待ってほしい」という話になる。そして再度、妻に「別れてほしい」と切り出すのだが、「別れるんだったら私たちを殺してから行きなさい」と言われ、平手打ちをくらう。そして、再び妻に土下座して詫びる。

 そんなことが続く間、男性からの別れの電話に有紀恵さんが納得しないでいたところ、妻が電話を代わり、女性ふたりが激しく口論となった。そうした電話での応酬は何度も繰り返され、時には何時間もなされることもあった。

 その電話でのやり取りの中で、有紀恵さんは「あなたは生きている子どもをおなかから平気でかきだすような人だ」と妻に言われショックを受ける。事件の後、犯行に至る動機として有紀恵さんはその言葉を忘れることはできないと証言した。ただ妻は後に、このやりとりをそういう意味では言っていないと説明している。

 修羅場が繰り返されるうちに、高田氏は次第に、有紀恵さんと別れるしかないと思うようになっていった。有紀恵さんは精神的に追いつめられて93年11月、家事調停に踏み切る。そして思いつめるあまり、彼と刺し違えて無理心中しようかなどと考えるようになる。また高田氏の長男が、自分が妊娠中絶した子と懐妊の時期が近いことから、自分の子の魂が入っているような気がして、誘拐を考えたこともあったという。

 後にこの事件をヒントに書かれた小説が、角田光代さんの『八日目の蝉』だ。小説の中では女性が子どもを誘拐して自分の子として育てようとするのだが、ドラマ化・映画化もされ、ミリオンセラーとなった。

死刑になっても当然という深い罪悪感

 高田夫妻の住むアパートの部屋が放火されたのは93年12月14日の早朝だった。有紀恵さんは、妻が夫を駅まで送りに出たのを見届けた後、合鍵を使って侵入。ガソリンをまいて火を放ったのだった。直後に起きた爆発に彼女は吹き飛ばされ、スニーカーを片方現場に残したまま逃走した。高田夫妻の子ども二人が焼死するという凄惨な事件は、こうして起きたのだった。

 有紀恵さんは裁判で罪を認めながらも、1審判決を不服として控訴した。子どもたちに対する殺意を認定されたことに納得がいかなかったのと、事件当時心神耗弱に陥っていたと主張したからだ。当時、女性週刊誌などには、有紀恵さんが寝ている子どもにもガソリンをまいたという誤った記事も掲載され、彼女をひどく傷つけた。

2002年3月号の北村有紀恵受刑者の手記(筆者撮影)
2002年3月号の北村有紀恵受刑者の手記(筆者撮影)

 有紀恵さんは『創』02年3月号の手記にこう書いている。

《私は、刑を受けることにはなんの不満もありません。結果を見れば当然ですし、事件を起こす前から、中絶をしたことで私は死刑になっても当然だという深い罪悪感を持っていました。事件によってたくさんの方にご迷惑をおかけし、辛い思いをさせました。無論、無実でもありません。ですから刑を受けることには不満はないのです。ただ審理の内容にはまったく納得していません》

 そして事件から7年半を経て、刑が確定した心境をこう書いていた。

《この7年半は、無為な空白の時間ではなく、私にとって必要な時間であったということです。ほんのすこおしは、ましな人間にしていただきました。そしてこれからの生活で、もう少しは、ましな人間になりたいと思っています》

 7年半の間、彼女にはいろいろな人生の転機があった。その中でも大きな転機は、拘置所でキリスト教に入信したことだった。98年12月22日、洗礼は拘置所の特別のはからいで、面会室のアクリル板越しに行われた。彼女は信仰について、『創』の手記にこう書いていた。

《この7年半の生活の中で、一番大きなことは、信仰を持ったことでしょう。それによって、私は今回の決定も平静に受けとめることができたのだと思います。

 事件で亡くなったお子さんたちのために、何ができるのか、何をするべきなのか、問い続けてきた7年半でした。

 初めは、写経等を一生懸命にしていました。瀬戸内寂聴さんの本の中で、「亡くなった方の菩提を祈って写経するのが一番の供養」と書かれているのを見て、私にも子供たちのためにできることがあった!と喜び、一生懸命に写していました。そしてお経を誦し、祈っていました。

 しかし、段々とお経の意味が解るようになり、色々とその方面の勉強をする中で、さまざまな疑問が生まれ、そして解決し、再び生まれ、そして解決を得……の繰り返しを続けるようになりました。それはまさに、体当たりでつかみ取ってゆく、という体験でした。

 その中で、私はキリスト教に出会いました。そこでも私は、やはり血みどろの戦いをしました。そしてその中で、

 お前には、子供たちのために、何かを願う資格があるのか、

 お前には、子供たちのために、何かをする資格があるのか、

 という問いにぶち当たりました。

 もちろんない。ないのは重々承知でした。けれども、それでも願わずにはおれない。何かをせずにはおれない。問わずにはおれない。それが私の写経であり祈りであり求道でした。

 しかし、ここまで謹厳な、根元的な問いにぶつかった時、私はもう、神の前にひれふすことしかできませんでした。そして神のあわれみにすがるしかありませんでした。そして2年半前、99年のクリスマスに、私は拘置所の面会場で、ガラス越しに洗礼を受けたのです》

家族もその後の人生を贖罪に費やした

 有紀恵さんの家族が八王子の大恩寺を訪れたのは1審の公判が開かれている94年9月だった。高田夫妻の亡くなった子ども2人が納骨されているお寺だった。死なせてしまった子どもたちにお詫びし、冥福を祈ったのだが、母と妹は涙が止まらなかったという。それを見た住職に事情を尋ねられ、「犯人の家族です」と名乗った。

 北村夫妻はその後もお詫びのために何度も同寺を訪れたが、それが高田夫妻の知るところとなって翌年、子どもたちの遺骨は別の場所へ移されてしまう。しかしその後も有紀恵さんの両親はお参りに訪れ、住職がその気持ちに打たれて、有紀恵さんが仮出所したら身元引受人になってもよいと申し出るまでになった。

 両親がお詫びのために足を運んだのはそのお寺だけではない。当時の記録から一部を抜粋しよう。

 94年3月23日、佐野大師に参り、有紀恵さんの子どもと被害にあった子どもあわせて4人の冥福を祈る。

 3月29日、正見寺住職に来宅を依頼し法要(以後もたびたび)。

 4月3日、近所の家をお詫びして回る。

 4月5日、町会役員会に出席し、今後も現在地に住むことを許してほしいとお願いする。

 5月13日、第1回公判の後、現場となった団地に赴き、お詫び。

 6月14日、築地本願寺にお詫び祈念。

 その後もお詫びの祈念や法要は続く。9月23日には前述したように、犠牲となった子ども2人が納骨されている大恩寺にお参りした。

 95年6月25日、火災を起こした団地住民に集会所にてお詫び。住民の中には「裁判を傍聴していて涙が出た」と同情的な言葉をかけてくれる人もいた。

 7月10日、弁護士と高田氏の家を訪れ詫びしようとしたが、「帰ってほしい」と言われる。被害者宅へはこの後も何度か訪れるが対応してもらえない。

 その後、高田夫妻は東京を離れ、東北南部に移住する。有紀恵さんの親はそこへも何度も足を運び、会ってもらえない時は祈念と線香やお供えをして帰る。後に高田氏の妻は『新潮45』の取材に応じてこう語っていた。

「昔はよく、北村さんのお父さんが訪ねてきていましたが申し訳ないけど会うのが辛かったです。事件を生々しく思い出してしまうから辛かった。……できることなら来ないで欲しかった」(同誌03年2月号)

 その後も有紀恵さんの両親は、都内だけでなく関西など地方も含めて各地のお寺へお詫び行脚を行った。

「秩父巡礼とか、坂東三十三カ所、それに西国三十三カ所など、女房とふたりで回りました。

 今も毎月、自宅にお坊さんに来ていただいてお経をあげてもらっていますし、12月のふたりの子どもの命日には毎年大恩寺に伺って法要をしています。

 それから朝晩欠かさず近くの9カ所のお寺にお参りしているし、夜も近所のお地蔵さんにお祈りしてくるんです。

 何をやったらいいのかわからなかったし、そんなことしかできることはないので、とにかく祈る気持ちでやってきました」

 有紀恵さんの父親がそう語る。朝晩のお寺や地蔵参りは娘の逮捕後、欠かさず続けているというのだ。有紀恵さん本人も、前述したようにキリスト教に入信して祈りを行っているほか、作業報奨金の一部を、高田夫妻の代理人弁護士を通じて送っている。

無期懲役の受刑者をめぐる厳しい現実

 事件から20年を経た頃から、有紀恵さんの知人の間で、仮釈放を何とかできないだろうかという声が出るようになった。私もそれに協力し、無期懲役の実態や仮釈放についていろいろなことを調べるようになった。

 無期懲役は、本来の意味は服役が無期限に続くということだが、実際には更生の可能性を信じて、条件が整えば仮釈放で社会復帰を認めるという制度だ。

 あくまでも仮釈放だから刑務所を出た後も保護観察がつくのだが、かつては20年で仮釈放可能とされてきたのが近年は30年に延びている。重罰化の流れの中で、05年に有期刑の最長期が懲役30年に引き上げられたため、それとの整合性をとるためにそうなったらしい。

 その流れの中で無期懲役囚の服役期間が長くなり、終身刑に近づいてしまったことに対して、日弁連は反対を表明している。ある程度の年齢で犯罪を犯した人にとって30年は相当長い。その結果、刑務所で生涯を終える人が珍しくないという。法務省のデータによると、例えば2018年、19年に仮釈放された人数はそれぞれ10人、17人。一方で獄死した人数は24人、21人。つまり仮釈放で社会に復帰する人より獄死している人の方が多いのだ。

 過去10年間のデータをとると、仮釈放になった人数は累計100人(仮釈放取り消し後に再度仮釈放された者を除くと77人)。それに対して獄死してしまった者が計217人。仮釈放になる人数の倍以上の数が獄死しているのだ。

 2019年の無期懲役受刑者は1765人。そのうち17人が仮釈放になっているのだが、その人たちの平均在所期間は何と36年だ。在所年数が50年を超える受刑者も11人いる。

 無期懲役の終身刑化は、はっきりとデータに表れているといえる。

「罪を償う」とはどういうことか

 そんなふうに服役期間が長くなった結果、仮釈放されても受け皿がない、つまり家族や知人が亡くなってしまうという問題が深刻になりつつある。

 有紀恵さんもまさにそのケースだ。最高裁まで争ったこともあって、確定までに7年半を費やし、現在はもう事件から約30年たっているが、受刑期間がまだ20年だから、平均30年という基準から考えるとあと10年もある。高齢の両親がそれまで健在でいることは困難だろう。本人だってそれまで刑務所で健康でいられる保証はない。

 実は私は、有紀恵さんが仮釈放になった場合は、創出版で雇うとして刑務所に上申書も提出している。仮釈放は受け入れ先がしっかり決まっていないと認められない。身元引受人は彼女の父親なのだが、就労予定が確保されていることも意味を持つはずだということで私も書類を提出した。

 仮釈放というのは、物理的な手続きの問題なのではなく、「罪を償う」とはどういうことなのかという洞察をどれだけできるのか、それが刑務所や、さらに「社会」にどのくらい認められるかを抜きにしてはありえないように思う。

 有紀恵さんは刑務所で今年、1類という区分に昇格した。刑務所というのは受刑者を等級制度のもとに置き、更生が進めば等級が上がり自由度が増すというシステムだ。これまでも彼女は2類になった時点で、親との接見も優遇されるし、月に一度、刑務所から家族に電話をすることが許された。面会の制限も緩和され、月に何度も刑務所を訪れることが可能になった。そして今度は1類になって面会時間は1時間も許されることになった。古畑弁護士のインタビューにある通り、受刑者が1類になるというのは大変なことで、彼女の服役態度や謝罪更生の取り組みは多大な評価を得ていることになる。ただ、現実にはそこから仮釈放に至るには、高いハードルがある。

 有紀恵さんには、両親が健在なうちに、本誌が発行されているうちに、社会に戻ってほしいと思う。同時にそれへ向けた働きかけを通じて、無期懲役の終身刑化という大きな問題について多くの人に考えてほしい。それは「罪を償う」というのはいったいどういうことなのか、考えることでもある。

 両親が健在なうちに有紀恵さんは仮釈放になることが可能なのか。残された時間はそう長くはない。

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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