機械と人間のインタラクションをいかに利用し、映像/視覚文化に偶発性と新奇性を取り込むか
筆者も参加した、ジブリからゲーム実況までを扱った映像論集『ビジュアル・コミュニケーション 動画時代の文化批評』(南雲堂)刊行にあたり共著者全員により、「映像/視覚文化の現在」をテーマに様々な角度から共同討議を行いました。
■機械と人間のインタラクションをいかに利用し、偶発性と新奇性を取り込むか
冨塚
ロトスコープとノイズの話は、アンディ・サーキスなどに代表される、CG表現のベースになる部分を生身の俳優が演じる、いちど機械を通した上で人間の身体の冗長性を呼び込んでいく方向性ともつながっていますよね。こういう動きは映画やアニメ以外でも起こっている現象だと思っています――単に制御不能なものを持ちあげて、「アニメと異なり実写映画では現実の風が画面に映るのが良いのだ」といった短絡的な見方に陥るのではなく、機械/人間、デジタル/アナログのインタラクションが持つ可能性について考えたいと思っています。
たとえば岡崎乾二郎氏らによる『芸術の設計』は、建築・音楽・ダンス・美術の四ジャンルにつき、コンピューター・プログラムやアプリケーションを通じて技術について再考した一冊です。制作現場でのMIDIやフォトショップなどの活用法に関する、あえてマニュアルを模した記述からはじまる各章は、しかしいずれも最終的にアプリケーションの機能を適用するだけでは解決不能な、情報に還元できない具体的な制作過程で突き当たる技術の問題を提示します。
この本でも紹介されているダンサー、トリシャ・ブラウンと岡崎氏が組んだ、現在でも一部をYouTubeで観ることが可能なパフォーマンス、「I love my robots」では、トリシャがかつて踊ったダンスの情報を2台の棒状のロボット、デクノボーDekNoboに入力し、それと本人が共演しました。
動画でしか観ることが出来ていませんが、過去の自分のダンスを再現したロボットとのインタラクションを通じて、かつての自分の身体の動きとある種の対話をしているところがおもしろい。
飯田
ロボット研究者の石黒浩が、落語家の桂米朝のアンドロイドを作ったけれど、石黒さんのところには文楽の重鎮から「俺をアンドロイドにしてくれ」という依頼があるらしいんですね。
しかも、落語は一応米朝の体になるアンドロイドが必要だけど、文楽はもともと人間は人形を棒で操って動かしているだけで観客からは見えないから、演じ手の動きをモーションキャプチャーすれば棒が動くだけの産業用マニピュレーターで十分に人間国宝の動きであろうと完璧に再現できると。
演者の見た目を再現しなくていいぶん、落語家のアンドロイドより安く作れるらしい。しかも同じ動きしかしないのが味気ないというのであれば、ゆらぎを持たせてランダムでときどきミスをするとか、リズムの取り方が跳ねるようなプログラムは簡単にかませられる――素人が考えるていどの「人間らしさ」は簡単にプログラムできるとも言っていた。音楽ではリズムマシンやシーケンサでいかにしてリズムの“訛り”やズレを表現するかが早くから追求されてきたけれど、そういうことはあらゆる身体芸術に及ぶし、遠からず多くの身体芸術はロボットというかたちで保存されていくことになると思う。それは見方を変えれば、それぞれに固有の見た目と動き方を備えたロボットが、あたらしい身体表現=映像芸術の担い手になっていくということでもある。
海老原
冗長性も最適解的に「こういうふうにブレれば人間性を感じるよね」というふうに再現できるようになっていくと。
冨塚
古臭い言い方かもしれませんが、ありうる失敗もデータに取り込めるとはいえ、それでも予想できる範囲のバグでしかないのがプログラムだとすると、一応予想できない何かが起きる可能性を持っているのが人間である、と現状ではまだ言えるような気がします。もちろん、2014年にはチューリングテストに合格したプログラムが話題になりましたし、今後さらにブレやゆらぎの再現技術が上がることで、どんどん人間とプログラムの境界ははっきりしなくなってくるのでしょうが。
佐々木
私はやはり、人間と機械を「どちらが優れているか」の対立構造として捉えなくていいと思うんです。先ほど冨塚さんが仰ったように、機械と人間のインタラクションの可能性を積極的に考えたい。DekNoboに関しても、機械が人間の動作を変えるきっかけを作り、その動作がまた機械にフィードバックされていくという、両者の協力関係を築くための装置であるところが魅力的です。人間と機械が互いに偶然性をもたらし合う関係性ですね。
先日、将棋電脳戦FINALが話題になりましたが、もしも次回があるならば、人間vsコンピュータではなく、人間とコンピュータがタッグを組んでチームバトルをするほうが面白そうだし、見てみたいです。
宮本
最近は学術の世界でも、情報科学と人文学の融合領域として、芸術や伝統芸能をデジタルデータ化して分析をしていく「デジタル・ヒューマニティーズ」という考え方が話題になってきていて、実際にそういう協力関係が築かれているという印象があります。
飯田
とすると機械・デジタルか、人間・アナログかというより、コントーラブル・予想可能かアンコントーラブル・予想不可能か、という感じですかね? それも対立軸というより相補関係かもしれないけど。
海老原
すべてをコントロールするハリウッド的なエンジニア集団に対する映画界からの反発として、ドキュメンタリーやフェイク・ドキュメンタリーみたいな、監督が生の現実というアンコントローラブルなものを意図的に取り込んで演出していくやりかたもありますよね。松江哲明さんと山下淳弘さんが撮っているドキュメンタリー『山田孝之の東京都北区赤羽』を見ていると、どこまでが本当でどこからが作っているのかわからないところが楽しいんですよ。
藤田
ハリウッド映画に勝てなくなった邦画の戦略として、ドキュメンタリー的なものはひとつの答えですよね。あとは、アイドル? アイドル・ドキュメンタリーとか、アイドル・疑似ドキュメンタリーとか、その要素の入った邦画も、多くヒットしましたね。
海老原
ハリウッド対邦画という対立軸ではなく、ハリウッド的なもの対フェイク・ドキュメンタリーという軸で考えた方がよいでしょう。海外でも(フェイク)ドキュメンタリーはあるわけですし。渡邉さんは一時期ドキュメンタリーをプッシュしていましたよね。今考えてみれば、それはデジタル化が進行するなかでの裏番組的なもの――ひとつの事態がもたらす両サイドを語っていたのかなと思いました。でも最近はあまりドキュメンタリーの話をしないですよね。
渡邉
そうですね。この前も『テラスハウス』が映画化するので、渡邉にぜひコメントしてほしい、みたいなツイートを見かけましたが、個人的には、擬似ドキュメンタリーについては、「イメージの進行形」を連載していた五、六年前にさんざん考えたので、単純にいまはだいぶ食傷気味になってしまったんですね(笑)。
というのもコントロール可能性と不可能性、必然性と確実性みたいな対立がどんどんメタ化して臨界点を超えてしまった。ここまで出てきたような「すべてがコントローラブルになり定量可能になった、そしてそれに対する偶然性や不確定性すら設計可能になっている」ということと近い問題が疑似ドキュメンタリーに関しては二〇〇〇年代初頭には重要な問題としてあったけれども、今はそれすらも突き抜けていってしまった感じがしている。僕としては、いまはそこから距離を取って考えたい。
むしろ擬似ドキュメンタリーのある種の進化形として僕が最近、興味を持っているのは『キス我慢選手権』です(笑)。あれはライブとドキュメンタリーとフィクションの多重化、並行性といった今話してきたような受容経験の枠組みが、「キス」というモティーフが喚起する演者の情動性や欲望とうまく絡み合っている。さっきの「快楽の映像美学」の問題とも関係しますし、あれはちょっと「擬似性」の新しい傾向かなと思います。
藤田
僕も佐々木さんと同じで、機械か人間か、あるいはメジャーかインディーかという問題設定は本質的ではないと思います。同じようなものばかりになって廃れるという危惧も出ていますが、人間は「飽きる」。飽きるから新しいものが見たい。新しいものを見せてくれればメジャーでもインディーでも、機械が作ろうと人間が作ろうと、どっちでもいい。たとえば『リヴァイアサン』なんて水中にGoProをたくさんぶっ込んで波の動きなんかを撮ったものですから、機械の力で実現できた側面だって多い作品ですよ。人間の目ではよく見えなかった海の動きとかを初めて人類が経験できたから「すごい」と思うわけで、人力でも機械でも、人類に新しい体験がどれだけ増えていくかという問題として考えるべきなんですよ。
……ただ、そうは言いつつも、現在の動画配信サービスが、安価で観放題をやっているじゃないですか。アマゾンプライムビデオとかHuluとかネットフリックスとか。あれは、名作のコンテンツが膨大な量蓄積されたことから可能になったことであって、観客からすれば、それを片っ端から観ていれば充分なのかもしれない。新しいものにお金が行きにくい状況にあるという苦しさは生じている気がする。個人に限らず、業界全体が、「新しいもの」を生み出すインセンティブを減らしてしまう構造変化が起きていることには危惧しています。
渡邉
しつこいようですが、その「飽き」の問題もやはり快楽や欲望の問題に深く関係しますね。しかも最近は、その飽きがくるスパンもどんどん短くなっている。Vineにしろ映画にしろどんどんハイコンセプトになっていて、一発ネタ的な「出オチ」みたいなものものが多い。『リヴァイアサン』も『ゼロ・グラビティ』も一回しかできないネタです。
海老原
まあ、『ゼロ・グラビティ2』はないですよね(笑)。
渡邉
映画もネットのコンテンツの消費スピードに近くなって、コンセプトを次々更新していかないといけない。それはやはりクリエイターは作りづらくなっていると言わざるをえない……と佐々木さんの隣で言うのはなんですが(笑)。
佐々木
いや、まったくそのとおりです。
藤田
『ピクセル』の短編版が、長編映画化されましたが、アイデア一発で短編動画をYouTubeにアップすることが、ハリウッドへの近道だという世界も、夢があると思うけどな。それは、無数の、ユーザーたちの、マシンガンのような試行錯誤の弾のほとんどは外れて、たまたま一発だけが当たる、という世界なのだけれど。でも、そうなっちゃった。
佐々木
その裏返しとして、例えばマーヴェル・シネマティック・ユニバースの長期戦略があるのでしょうね。無数のキャラクターと組み合わせを用意して、長きに渡って愛されるシリーズをつくりだすという。それが実現できていること自体が奇跡的な、卓越した仕事だとも思いますが。
竹本
多数のキャラクターを用意して物語性を構築していくという戦略は日本においても顕著ですね。AKB48を中心とした現実のアイドルユニットなどもそうですが、たとえば二次創作界隈においても、東方Project、アイドルマスター、艦隊これくしょんなど、とにかく多数のキャラが登場するコンテンツが人気になるケースは非常に増えていますし、さらにいえばメインストーリー、核になる物語も必ずしも求められていない。
■「完成した作品」という輪郭がぼやけていく時代にいかに批評はあるべきか
佐々木
あるいは、首都大学東京の渡邉英徳さんがGoogle Earthを利用して様々なデジタルアーカイブを制作なさっていますが、Google Earthの仕様はそれこそGoogleの都合で次々に変わっていくわけです。それに対して彼は、仕様が変更されたら「それならそれで、次はこの辺りを改善しつつ作り変えよう」というバージョン思考で対応していて、現在は各アーカイブをGoogle Earthから新プラットフォームへ移植する作業も進めているそうです。彼は「ひとつの作品を作った。完成!」という制作モデルで考えていない……。
飯田
次々にアイデアを繰り出すのでもなく、シリーズキャラクター化するのでもなく、作品を「アップデートし続ける」ことで時代の速度に対応しているわけですね。
佐々木
コンピュータやインターネットの世界では当然のことなのでしょうが、映画制作にこだわってきた私にはそれがとても新鮮でした。渡邉さんは自らのデジタルアーカイブを「作品」と明言している方でもあり、そうした作家性の自覚とバージョン思考を両立させた活動には、映画制作にも応用できる部分があるのではないかと思っています。
藤田
美術では「作品」とか「完成」の輪郭が曖昧な作品が増えてきて、難儀しています。語りにくいし、批評しにくい。濱野智史さんが『アーキテクチャの生態系』でニコ動を分析したように、「生態系」みたいな枠組みで語ることが必要とされているんだけど、地域アートに多い作品の場合は、デジタルでもなかったりするから、計測もできないし、なかなかしんどい。でも、その「計測できなさ」への期待というか、ロマンティシズムというか、ノスタルジイが、デジタルではない経験や体験を求める傾向の、背景にはあるのかもしれない。
飯田
ジャーナリズムや批評の問題は大きい。僕が以前ある雑誌で新譜紹介をやっていたときには、なぜかパッケージ化されたCDアルバムやシングルという「盤」単位での紹介しかダメだと言われていた。だけどいまアルバムをCDでわざわざ買う人間がどれぐらいいるのか。現実にはiTunesStoreで1曲単位でデータで買ったり、YouTubeやニコ動でMVや公式動画を観たり、soundcloudにアップされてるMIXとかを日常的に見聞きしているほうが主流なわけで、なぜフィジカルリリースされた盤にレビュー対象を縛らなければいけないのか、意味がわからない。日本の雑誌、あるいはウェブマガジンですら、レビューは円盤単位、商業流通している作品単位、美術なら作品や作家、展示会単位で取り扱うという暗黙のルールがいまだに広く見られる。
藤田
僕は日本SF作家クラブ会員なんだけれども、その年でもっともすぐれたSF作品に賞を与える「日本SF大賞」の審査規定について、初音ミクを例に出して、「作品の輪郭がない『現象』のようなものも対象にして評価できるようにしないとダメだ」と主張して、規定を変えたんですよ。だけど改訂しても小説しか候補にあがらなくてガッカリしたけど、長期的には間違っていないはず。
海老原
選ぶ側が保守的だと、作品としてパッケージされたものしか選べないんだよね。
藤田
でもこれから先一〇年後、一五年後を考えると、ジャンルを問わずどんどん作品の輪郭は曖昧になって、あたらしい作品/活動のありようが生まれていくはずなんです。今のところはメディアや批評の方が新しい作品形態、消費の実態に対応しきれていない。
佐々木
そこでアーカイブの問題が出てくると思います。新たな表現が生まれてきても記録されなければ残らない。成果が蓄積されていかない。その意味で、映画をはじめとする視覚文化が長きに渡って力を持ってきたのは記録性の強さが大きいのでしょうね。こうした問題がいち早く取り上げられたのが現代美術ですが、たとえばランド・アートやパフォーマンス、無形の作品をどうやって歴史に残すかというときに利用されたのがフィルムやビデオだった。作品であると同時に記録である、記録であると同時に作品であるということは自明ではなくて、一部のメディアや表現にのみ特権的なのだということはしばしば忘れられがちです。
藤田
映像はアーカイブメディアとしてこれまで最強でしたからね。先日、東京都現代美術館で行われたトークイベントでちょうどその点についてアーティストの藤井光さん、田中功起さん、相馬千秋さんたちと議論しました。現代の美術は非物質的なところに本体がある。リレーション、プロセス、ハプニング、コミュニケーション、ネゴシエーション、参加しなければわからないような体験性……そういうもろもろのなかにアートの本体がある。そうすると、それらの美術の本質的な部分は後世には残らない。記録はできるけど、保存もコレクションもできない。売り買いもできない。テクストや映像には「痕跡」としてしか残せない。相馬さんはそれに対しては「しょうがない」と(笑)。田中さんは「記録そのものが作品だ」という立場。やはり、田中さんも藤井さんも、「映像」にし、アーカイブにする。
飯田
先ほど話題に出ていた濱口監督の作品もそういうものなんですかね。たとえば演劇制作のように何かのプロセスを記録しているんだけど、単なる記録ではなく、記録すること自体が作品としての価値を生んでいる側面もあるというか……。
冨塚
濱口作品に関しては、特にドキュメンタリー要素のある作品で、「最終的に作品に含まれなかった時間をいかに出演者と共有したか」が重要な意味を持っていたことが、インタビューやトークショーなどで指摘されていました。また、最新作『ハッピーアワー』については多様なゲストが参加した制作準備期間のワークショップや成果発表の記録がKIITOより公開されており、極めて興味深い内容となっています。
■体験装置としての映画館、小劇場演劇化する映画ファン
飯田
ただ、映画/映像はアーカイヴとしての側面とは真逆の要素も持っていますよね。柳下毅一郎さんの本に詳しいけれど、映画はもともと「興行」、サーカスなどと同じような見世物小屋的な側面があった。複製芸術なんだけれども、そこに行ったひとにとっては一回性の体験でもあった。
ライヴビューイングに代表される映画館の活用のしかたは「体験性の復権」「見世物小屋性の再来」という側面が少なからずある。シネコンは音響も画面も一昔前の映画館とは比べものにならないくらい良くなって身体に訴えかける要素を強化したからこそ、ライブビューイングも実際のライヴと遜色ないくらい楽しいわけです。2014年夏に『ミュージカル テニスの王子様』2ndシーズンの青学Vs.立海大付属の千秋楽を新宿バルト9でライビュしましたが、観客の女性たちは画面越しで観ているのに相当泣いていました。
藤田
画面に向かって声をかけるんですよね? あれって、向こうには聞こえないんですよね?
飯田
だってコールアンドレスポンスを画面の向こうから振られるわけだから、それは答えるでしょう。跡部様に「メス豚ども」って言われたら現地の会場でも全国各地の映画館でも「キャー」ってなるんだよ。楽しいですよ。
映画の話もすると、たとえば永野護が監督したアニメーション映画『ゴティックメード』について、永野さんは今のところ「パッケージソフトにはしない。配信もしない」と言っている。なぜかというと、超高音質かつ超高画質で作っていて、家庭用の機器では再現できない。それだと作家本人が思った通りの音も絵も出ないからだ、と。「これ、ブルーレイにならないんだ。アーカイビングされないんだ」と思うと、じゃあ劇場に観に行こうという動機になる。映像が単に視覚を中心とした体験ではないことに、強く訴えているのが面白い。
渡邉
僕も『イメージの進行形』や共著『映画史を学ぶクリティカル・ワーズ』で触れたし、大学の講義でもよく話すけど、「パッケージからライブへ」というのは、おそらく映像に限らず、現代の文化産業全体のパラダイムですよね。『Playback』の三宅唱監督とかもあえてDVDにしないでしょう。瀬田なつき監督の『5windows』も、サイトスペシフィックな、ある場所でしか観られない作品として作られている。
冨塚
富田克也監督の『サウダーヂ』など、一連の空族関連作品や只石博紀監督『季節の記憶(仮)』も、同様にあえてソフト化せずアンコール上映を繰り返す方式をとっていますね。濱口監督の作品も、意図的かは別にしてソフト化が進んでいないことで、実際に僕も足を運んだ特集上映にはある種の一回性があったように思います。
海老原
それは見方を変えると、作家性のある映画監督で、ハリウッド的なブロックバスターは作れず、かといってカジュアルな「動画」も作りたくないタイプの人たちは「演劇化」しているということですよね。濱口監督が演劇を撮ったのが象徴的だと思います。作る人と観る人がほとんど重なった状態は小劇場演劇でよくありますが、実写映画もインディーズ小屋みたいな映画館を自主運営するようになり、お金を出し合って撮る人と観る人がぐるぐるまわる状態になっていっているんじゃないでしょうか。
「そこに行けばインディーズ映画が見られる」という場所、コミュニティができあがっていくしかない。ブロックバスター映画はどこでも観られる一方で、かつての中間映画的なものを志向する実写映画に関しては、映画鑑賞が演劇体験のように一回性の「ここでしか観られないからいいよね」ということが価値付けられていく。本来であれば映画は記録媒体であり、どこでも何度でも見られるものだったが、映画が動画に浸食されると、再現性を捨てて一回性を取り、大規模に流通しないこと、およびそれを経験することに価値を見出すようになる。旧来の映画の延命なのでしょう。つまるところは、好みの問題になるでしょう。滅びることはないでしょうが……。
渡邉
まさにそうで、ゼロ年代以降のインディーズ映画の活況は、いろいろな点で八〇年代の小劇場演劇ブームに似ていると、深田晃司さんも言っていました。ソーシャルメディアと連動した、「ライヴ体験」と「中間共同体的一体感」でなんとかマネタイズしていこうという戦略ですね。ただ、そうした過渡的状況の中で、「映画」というメディアに対する世代間での思い入れやイメージにも大きなギャップが出てきてもいます。
たとえば、僕なんかは日芸映画学科などで教えていますが、いまの若い学生たちもすっかりニコ動・スマホ世代だし、劇場で観る映画に対しては、観客数も減っているし、冷めた目で見ているだろうと思っていた。だから、いったいどういう動機づけがあって彼らは映画学科に来るんだろうと不思議だったんですね。
でも、あるときわかったんです。むしろ彼らは、スマホやタブレットでは観られない非日常的な体験として「映画」に行っている。しかも、東京ならまだしも、地方にいる子は郊外化の影響で映画館自体がほとんどない。僕の実家がある栃木もそうだけど、田舎の子は二時間かけて移動してシネコンに行ったりしているから、映画に行くこと自体がすごいイベントになっている(笑)。半世紀前に映画が娯楽の王様だったのとはまた違った意味で、映画に対してすごく憧れがあるんですよ。
だから、まあ、しょうがないんだけど、日芸の一年生は「映画学科に来た。これで俺も『アイアンマン』や『寄生獣』みたいなものを撮れるんだ!」みたいに思っているわけです(笑)。現実はまったくそうはならないのだけど。
藤田
逆に言えば、そういう非日常な体験型アトラクションとしての価値がなければ、劇場に行く価値は低落していますよね。蓮實重彦が「フィルムで観ないとダメだ」と言ったのは、ビデオテープでブラウン館のヘボいテレビじゃ画質が悪くてちゃんと見えない時代だったりした。だけど今は池袋の新文芸座とかでは「ブルーレイ上映」をしているし、おばあちゃんの家とかにも無駄にデカいテレビがあって、GEOやTSUTAYAに行けば八〇円とか一〇〇円とかでブルーレイが借りて観られる。そんな時代に、劇場に人を来させるには3Dにするとか、IMAXで音響やら何やらをすごくする方向にせざるをえない。
渡邉
そうですね。とはいえ他方で、蓮實重彦が影響力を持ち出した時代にしても、同時にVHSが普及した時代でもあった。それまで観られなかったダグラス・サークやハワード・ホークスの映画がVHSで市販されるようになったことでシネフィル文化が芽生え、影響力を持ったわけです。