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女優・野際陽子が書き残していた知られざる「富山大空襲」【野際陽子物語】

笹山敬輔演劇研究者
(提供:MeijiShowa/アフロ)

戦後76年、あの時代に何が起きたかを語れる人が減り、戦争の記憶も薄れつつある。晩年の野際陽子は、戦争が忘れられていくことに強い危機感を抱いていた。

彼女は8月15日の終戦を9歳で迎えている。ラジオから流れる玉音放送の意味はよく分からなかったが、日本が戦争に敗けたと聞かされ、とっさに「校長先生が嘘をついた」と思った。学校ではずっと「神国日本は必ず勝つ」と教えられてきたのだ。そんな体験をした彼女は、自分たちの世代について次のように語っている。

終戦の時、小学生だった世代というのが、また一つすごく意味のある世代じゃないか、大げさにいえば、私たちが踏ん張らなくなったら、どっかガタガタと悪い方へ行っちゃうんじゃないかという使命感のある世代だと思うんです

出典:『サンデー毎日』1983年10月30日号

その使命を果たすかのように、芸能人の政治的発言が歓迎されないこの国で、彼女は自分の意見をはっきりと表明してきた。東日本大震災後には、原発について「無知」だったと語ったうえで、原発反対のスタンスを明確にしている。また、2013年に「特定秘密保護法案に反対する映画人の会」に賛同し、2015年には安保関連法案に反対の声をあげた。

それは、日本を再び戦争の時代に戻してはならないとの思いからだった。では、彼女はどんな戦争体験をしたのだろうか。

戦時下の郵便局

昭和19年の夏、8歳の陽子は祖母の兄が局長をしている富山の婦中郵便局で過ごしていた。郵便局のある婦中町(現・富山市)は、神通川下流の西岸一帯を占め、田んぼが一面に広がる米作地帯だ。富山で生まれた陽子は、3歳のときに父の仕事で東京に引っ越し、故郷を離れている。だが、戦局悪化に伴い、本土への空襲に備えて、都市部で学童疎開がはじまった。陽子は、母の実家である石川県津幡町に疎開するはずだったが、すでに親戚が大勢押し寄せていたため東京へ戻ることになり、その途中で富山に寄ったのである。

子ども心にその田舎町はどこかのどかで、戦争もはるか遠くに感じられた。縁側には簾が掛かり、石垣にはマツバボタンがあざやかに咲き誇っている。井戸には大きな黒部スイカが冷やしてあった。家と郵便局はつながっていて、陽子は「家の中に郵便局がある!」と驚いた。局内には子どもでも自由に出入りでき、時々本物の手紙やハガキにスタンプを押させてもらった。当時の郵便局長の曾孫にあたる長山誠(現・局長)は次のように語る。「切手に消印を押すとき、ハンマーのような槌型のスタンプを使ってたんですよ。子どもでもたくさん押せるから、それが楽しかったんでしょう」。少女にとって郵便局は、胸の高鳴る遊び場だった。

戦時下のつかの間の夏を過ごして、陽子は2学期が始まる前に東京へ帰っていった。彼女はその夏の光景をいつまでも忘れなかった。それは、記憶に残る富山で過ごした唯一の思い出である。彼女は、自著に次のように記している。

もしかしたら、巨大な戦争が私達をじわじわと締めつけてくるのを小さな心が息苦しい思いで感じていたから、あの夏の風景をこんなに鮮明に覚えているのかも知れない。

出典:野際陽子『脱いでみようか』

東京の杉並区にある家に戻ると、戦争はすぐ近くに迫っていた。

日本本土空襲

昭和19年11月24日、東京の空に100機を超えるB29爆撃機が飛来し、本格的な空襲が開始された。アメリカ軍が最初の標的にしたのは、零戦のエンジンを生産していた中島飛行機武蔵製作所である。そこは野際家からそれほど離れていなかった。まだ防空壕が完成する前だったため、陽子は家族と一緒におひつを抱えて押し入れに避難している。訓練のときはかくれんぼ気分だったが、その日は突然ドーンという音とともに家がガタガタと揺れた。警報が解除されて外に出ると、爆風によって何枚もの窓ガラスが割れていた。

空襲は日に日に激しさを増していく。いつも野外訓練をしていた空き地に大きな爆弾池ができたり、学校の先生が亡くなったりと、戦争の恐怖と隣り合わせの生活だ。その頃は父が昭和飛行機で働いていたために、帰宅するたびに無事を喜びあった。飛行機が真上を過ぎればもう大丈夫と教えられ、陽子が空を見上げると、B29爆撃機が巨大なお腹を見せながら悠々と飛んでいった。

12月8日に大規模な空襲があるとの噂を耳にした父は、今度こそ一家を津幡町に疎開させる決意をする。7日の夜、陽子たちはぎゅうぎゅう詰めの夜行列車に乗り、逃げるように東京を後にした。津幡の駅に着くと、見渡す限り一面が雪で覆われている。半年前とは一転して、厳しい雪国での疎開生活がはじまった。

やがて地方都市への爆撃が本格化し、空襲の恐怖は日本全土に広がっていく。そして昭和20年8月2日未明、疎開先から東の方角を見ると、空が真っ赤に染まっていた。市街地の99.5%を焼き尽くし、2700人以上の犠牲者を出した富山大空襲である。周りの大人たちが「次は金沢やね」とつぶやいていた。2階の窓から赤い空を見つめる陽子はそのとき、1年前に過ごした郵便局のことを思い出していただろうか。

父・幸雄

そんな時代を生きながらも、彼女はついに「軍国少女」にはならなかった。父の幸雄が、家のなかに軍国主義を持ち込まなかったのだ。開戦時に父は「えらいことをはじめた」と言っていたという。父は明治42年に富山の売薬の家に生まれ、京都帝国大学に進んで電気工学を学んだ技術者だった。卒業後は、富山県庁の電気局で黒部の発電所の仕事をしている。

彼は、滝川事件が起きる前の京大で、自由と個性を尊重した大正リベラリズムの息吹を吸ったのだろう。長山誠の妹の小泉弘実は、幸雄の印象を次のように語る。

幸雄さんは身長が高くて、スタイルも良くて、最後までダンディーな方でした。陽子さんの顔立ちは、お父さん似かな。野際家には陽子さんも含めて5人のお子さんがいますけど、親がお見合いをさせたりせず、みんな自分で結婚相手を決めたと聞きました。

のちに陽子は自分がわがままに育ったと振り返るが、見方を変えれば、戦争中であっても自由に育てられたのだ。だからこそ、戦後になって彼女は、素直な気持ちで新しい思想に出会うことができた。

東の空が赤く燃えてから2週間後に日本は戦争に敗けた。3歳まで住んでいた富山の家は焼けてしまったが、婦中郵便局は無事だったと、あとで聞いた。

それから40年後、彼女はテレビ朝日の旅番組『誘われて二人旅』で郵便局を訪れている。番組のコンセプトは、出演者の思い出の土地や、会いたい人が住んでいる場所を訪れるというものだった。きっと陽子がリクエストして実現したのだろう。そのときはハトコが局長をしており、収録後に皆でぜんざいを食べ、楽しい時を過ごした。局舎が立て替えられて立派になっているのはちょっと寂しかったが、やはり大切な故郷だった。

(文中敬称略)

〈参考文献〉

・野際陽子『脱いでみようか』扶桑社、1996年

【この記事は北日本新聞社の協力を得て取材・執筆しました。同社発行のフリーマガジン『まんまる』に掲載した連載記事を加筆・編集しています。今回の続きとなる最新回は8月12日発行の『まんまる』に掲載しています。】

演劇研究者

1979(昭和54)年、富山県生まれ。筑波大学大学院博士課程人文社会科学研究科文芸・言語専攻修了。博士(文学)。専門は日本近代演劇。著書に『演技術の日本近代』(森話社)、『幻の近代アイドル史――明治・大正・昭和の大衆芸能盛衰記』(彩流社)、『昭和芸人 七人の最期』(文春文庫)、『興行師列伝――愛と裏切りの近代芸能史』(新潮新書)。最新刊に『ドリフターズとその時代』(文春新書)。

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