「(息子の)異常な性癖は?」という記者の質問は、母親を苦しめるだけの残酷なものでしかない【追記あり】
〈犯罪〉は、刑法によって問題にされる前に、何よりも社会的な事実として問題にされます。人は社会の中で他人とのつながりでしか生きていくことができない以上、そのつながり、つまり人と人との関係性を破壊する行為として〈犯罪〉はまず問題とされます。そして、その関係性の修復のためには、被害者や社会に対する心からの〈謝罪〉と社会の〈ゆるし〉が必要となります。謝罪は、実際に犯罪行為を行った者だけではなく、犯罪者と縁に連なる者、家族や親類縁者による真摯な謝罪が要求されます。これは古くは〈縁座制〉(えんざせい)と呼ばれ、律令時代から明治初年にまで千年以上にわたって続く、日本のいわば伝統的な〈責任論〉なのです。縁座制を支えるものには、個人を家族集団の一要素とする特殊な家族観があったでしょうし、〈犯罪者と同じ血が流れている〉という世間の偏見に基づく犯罪に対する不安感などがあったのではないかと思われます。
もちろん、このような団体責任の論理は、明治時代に個人を責任の主体とする西洋流の近代刑法の継受によって、法の世界では否定されました。しかし、これはあくまでも法の世界のことであって、現実の社会においては、まだまだ不合理な縁座制あるいは連帯責任の論理で人びとが動いている面があることは否定できません。
今回の事件についていえば、まだ事実が不明な部分があるので慎重になるべきですが、会見の中である記者から今回の犯行の原因を聞かれた高畑さんは、息子が急に人気者になり、仕事が増えていった中での(人間的な)「甘さ」が原因だと思うと述べられていました。息子とっては、芸能界に入るに当たって有名女優である母親の存在は当然大きな力になったと思われますし、また高畑さんも息子の芸能界入りについては、最大限のバックアップをしたであろうということは想像に難くありません。普通の親ならばそのようにするでしょうし、それも理解できることです。しかし、息子が規律に甘い人格を形成するに至ったことについては、高畑さんの影響が大きかったのではないかと思うのです。もしも彼女に社会的な責任があるとすれば、まさにその点ではないかと思います(会見では、この点はご本人も十分に理解されているようでした)。
犯罪を糾弾するという行為は、社会正義に裏打ちされているだけに、糾弾の対象である〈犯罪〉には処罰にふさわしいだけの異常なイメージが自然と付着していきます。それでなくとも報道という行為は〈暴露的〉です。記者からの質問に「異常な性癖はあったのか?」といったような質問がありましたが、このようなものはまったく的はずれな質問であり、過剰な謝罪欲求となり、何よりも不当に母親を苦しめるだけのものではなかったかと思います。(了)
〈追記〉
会見での性癖質問については、フリーアナウンサーの大村正樹氏が、次のような謝罪と釈明をなされています。
高畑裕太容疑者の性癖質問で批判の大村アナ 謝罪&釈明「ご迷惑を…」
他方で、今回は性的な攻撃犯が問題になっている以上、〈性欲〉に関する質問はせざるをえないという考えを表明されているアナウンサーの方もおられます。
長谷川豊アナ、高畑淳子謝罪会見での「性癖」質問は「聞かない訳にはいかない質問」
すでにこの記事に対しては、以下のようなオーサーコメントを書きましたので、ここに転記します。
このような性犯罪では、性欲が強かったのか弱かったのかとか、性癖が普通だったのか普通と違っていたのかといったことが問題なのではなく、日頃から女性に対して力づくで言うことを聞かせたり、暴力を振るっていたり、あるいはお金や権威で女性を押さえつけたりといった、女性の人格を正面から認めることができず、女性蔑視の考え方があったのかどうかということこそが問題ではないですか。かりに彼が女性に対してそのような考え方を持っているとすれば、そのような認知のゆがみこそをカウンセリングなどで是正していくことが大切だと思います。これを性欲の問題にわい小化し、会見で、あのように息子の性欲について執拗に母親に聞くことによって、はたしてそこから何が得られるのでしょうか?