太平洋戦争時の日本の財政、巨額の軍事費をどうやって捻出したのか
12月8日で真珠湾攻撃から80年となる。どうして日本は無謀な戦争を仕掛けたのか。それには当然ながら歴史的な背景がある。ここでは戦争の意味などを問うのではなく、どうして日本は太平洋戦争を行えたのか。巨額の軍事費はどうやって捻出できたのかを探ってみたいと思う。
歴史を確認すればわかる通り、日本は突然、1941年12月8日に戦争を仕掛けたわけではない。すでに1931(昭和6)年9月18日に満洲事変が勃発し、1937(昭和12)年7月には北京郊外での日中の軍事衝突、いわゆる北支事件を契機に日中戦争が開始されていた。
その間の軍事費増大に対して増税では賄いきれず、国債が発行され、一時の便法として日銀による国債引き受けが高橋是清蔵相のもと始まったのである。
軍事費の増大によって財政規模は拡大し続けた。1935(昭和10)年の予算編成では、高橋蔵相は軍事費削減につながる国債の減額を主張し軍部と対立し、1936(昭和11)の2・26事件の標的となって暗殺された。
日本政府は一般会計とは別に戦争財政を管理するために1937(昭和12)年9月に臨時軍事費特別会計を設置した。臨時軍事費特別会計は戦争の開始から終結までの期間が1会計年度とした。つまり複数年度のわたる予算編成であった。その結果、1937(昭和12)年度から始まって1945(昭和20)年の終戦までの間、一度も決算がなされなかったのである。
予算額は1937(昭和12)年度の約20億円から1944(昭和19)年度は約735億円へと増加した。その財源は税収ではなく、そのほとんどが公債によって捻出された。その公債の発行も、戦費の捻出のためならば議会の協賛を必要としなかった。国債は本来、将来の税収を担保に議会の承認の上で発行するべきものである。
そのほかに日本軍は占領地域に国策金融機関を設立し、現地通貨や軍票などを乱発して無謀な戦費調達を行ったともされており、具体的にどれだけの軍事費が必要となったのかの数字ははっきりしていない面もある。
巨額の国債発行は日銀引き受けによって消化された。しかし、これではインフレが起きることで国債の民間での消化も促進された。1938(昭和13)年4月に大蔵省外局として国民貯蓄奨励局が新設され、地方には国民貯蓄奨励支局が置かれ、内務省系統の市町村の機関がこれにあたったとされる。
つまり巨額の国債発行は日銀の引き受けと国民の貯蓄によって金融機関を通じて、巨額の国債が消化された。当然ながら国民が直接国債を買うこともあった。
それらの国債はどのようになったのか。戦時中は押さえ込まれていたインフレが戦後に顕在化する。そのハイパーインフレとともに、戦後の預金封鎖などによって、日銀引き受け分の国債を含めて償還されることになった。もしくは強制的に消滅されたものもあった。
国債は国の債務だが、国民にとっては金融資産であり、トータルすれば問題ないとの見方があるが、確かに国民の犠牲の上で国債が償還、もしくは消滅されていたのである。
財務省のサイトによると、「大東亜戦争割引国庫債券」を例にとると、「元金の全部償還をする国債及びその償還期日指定(昭和26年大蔵省告示第1402号)」によって、昭和26年12月1日をもって繰上償還することとされていた。「国債ニ関スル法律」第9条において国債の元金の消滅時効は10年とされているため、昭和36年12月1日をもって消滅時効が完成しているとある。
また「賜金国庫債券」の場合、昭和21年4月1日以降を支払日とする元金と利子については、消滅時効が完成する以前に、法令によって無効となっているとある。