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「意識高い系」と「こじらせ女子」をめぐる対談 古谷経衡×山口真由(前編)

古谷経衡作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長
古谷(左・筆者)と山口氏(右)

 何かと巷を騒がせるニュースワード「意識高い系」と、「こじらせ女子」。一体、「意識高い系」とは何のか。「こじらせ女子」問題の本質とは。獏として判然としない「厄介な現代社会の秘蔵っ子」たちの深淵。この二つの点で共通する想いを持つという文筆家・古谷経衡と元財務官僚で弁護士の山口真由氏が紙上対談した(前・後編でレポート)。

・「意識高い系」とリア充のはざまで

古谷  我々の共通点は、札幌出身であることと、その札幌から高卒後、地元を捨てて内地(本州)に上京してきたこと、年齢的にほぼ同級生であること、コンプレックスがあるから努力をしてきた、という点等々です。僕は『意識高い系』(文春新書)で書いたのですが、僕は山口さんのようなエリートではないです。が、濃淡こそあれ努力の動機、努力することに対する根本が近寄っていることですよね。それはコンプレックスです。このことについては、山口さんのご著書『いいエリート、わるいエリート』(新潮新書)などで縷々お書きになっていますが、それによって私は山口さんに大変強い親近感を感じました。それで今回、対談させていただくことになりました。

山口  そうですね。

古谷  近年、コンプレックスを持った「こじらせ男子」「こじらせ女子」がクローズアップされるようになりました。青春時代に鬱屈としたコンプレックスを持っていると、それを大人になって発散させよう、後天的に解決してやろう、と強く希求するわけです。

 つまり、暗黒の青春時代を、年を取ってから後天的に求償しようと、あれやこれやと背伸びして頑張ってみる。僕の定義では、そういう人を「意識高い系」と呼んでいます。その女子版が、所謂「キラキラ女子」なんじゃないでしょうか。本当に元来、天然にキラキラ輝いていたのなら、自らを「キラキラ女子」と顕名することはあり得ない。「キラキラした上位の何か」にあこがれているからこそ、自分がキラキラと、社交的で、東京で恋も仕事も頑張っていることを他者にアピールする。しかし本当の強者は自明のことをアピールしない。よって、「キラキラ女子」の根本は、暗黒の青春時代の求償と考えます。如何お考えですか。

山口  お書きになったものを読みましたけど、古谷さんの問題意識はスクールカーストに起因するみたいですね。青春時代のやるせなさというか。

古谷  巨大な自意識。ある種のナルシシズムとも言います。

山口  私もそうですから、原因はスクールカーストが一定の原因になっているのは理解できます。だけど、それだけなんでしょうか? 十代の経験で一生の価値観が決まってしまって、変わらないというのも、少しやるせないというか。

古谷  僕の青春時代はスクールカーストにおける最底辺、つまりスクールカーストの中における無産階級だったので尚更そう思うんですが、やはりそこに大きな原因があると思っています。浅井リョウ著『桐島、部活やめるってよ』(集英社)は、進学校におけるスクールカーストを鮮やかに描いた青春群像です。この作品がすごいのは、カースト上位にいる人も等しく苦悩があることを描いたことでしょう。

 他方、映画『ブレックファストクラブ』(米・1985年、ジョン・ヒューズ監督)ではアウトロー、ゴスロリ、アメフト、チアリーダー、オタクなど様々なスクールカースト階級の人々が、横断的に打ち解けるという展開があります。前者はスクールカースト間の断絶とそれぞれの困難を描き、後者はスクールカースト間の融和を描いた青春群像です。僕の感覚で言うと、前者の方により親近感を持つ。あの作品の中に登場する、スクールカーストの底辺と同階級であった私は、やはり高卒後も厳然と残存するスクールカーストの傷跡と言うか、治らない宿痾を痛感し、「霧島」の映画版を観た後、しばらく席を立つことができなかった。高校時代、暗い青春時代を送ったものは、高卒後もずっとその傷を引きずるのだと思いましてね。

山口  私自身も小学校も中学校もスクールカーストが低位でしたけど……私達、同じ札幌市出身ですが、あの辺りの公立校ではカースト上位は授業に真面目に出ない不良っぽい男の子と、お化粧をして、スカートを短くして、私の時代だとルーズソックスを履いた女の子、そんなイメージじゃなかったでしょうか。下位はアニメの絵描いて交換したりっていう、いわゆる「オタク」の子たち。私は、真面目に勉強をするグループで底辺よりはちょっと上でした。

古谷  アニメの描いてるって、それ僕ですね(笑

山口  なんと、底辺じゃないですか(笑)。

古谷  内地(本州)のスクールカーストはもう少し違うのかも知れないけど、僕の出身(西区)ではやはり僕は底辺でした。

・終わりなきスクールカーストの地獄

山口  学校の中は小さな封建社会、そこでは固定された階級ができあがっている。学校の中では、階級によって服装が明確に定まっている。カースト低位の子が、スカートを短くしたり、ルーズソックスを履きはじめたりしたら、「調子に乗ってる」と嘲う風潮がありました。でも、階級上昇に対するあくなく欲求もあって。私が札幌で10代を迎えていた1990年代後半は、街中にあったパルコなんかが、私達ティーンのお洒落スポットだった。そこで、勇気を出して、ちょっとイマドキっぽいTシャツとパンツを買ったりして、で、極めつけはなんか謎に帽子とか被ってみたり。もちろん、それで学校は制服だし、それを着て友達に会いにいくなんてだいそれたことはできなかったけど、どうしても着て出かけてみたくて、近所の郵便局まで行くのに、わざわざその服を着て外出したんですよね。

 でも、私の家の隣に住んでいたのは、サッカーが上手でかっこいいイケてる男の子で、隣の部屋の2階のその子の部屋は、親が昼間いないからかカースト上位層のその子の仲間の溜まり場。それでね、そこから私が出かけるのを見ていたみたいで、次の日に学校で笑い者にされたの。今、思い出しても、なんかちょっと泣けるなぁ。勇気を持って踏み出した最初の一歩を見事に挫かれたっていうか……残酷ですよね? 私の自己肯定感の低さって、そこから来てたりして……とか思います。

古谷  なるほどそれは手ひどいトラウマ体験ですね。カースト上位になりたくて背伸びしてみたら、本当のカースト支配者から冷笑された―。僕なら余りの屈辱に自決を考えます。その「隣の家のサッカーがうまくてカッコいい男子」はひょっとして、現在もずっと、真駒内に土着しているんじゃないでしょうか。そのまま高卒後も地元から離れずに、土地に土着して支配者になる。「ヤンキーがワンピースを好む」という漠然とした印象と関係があるんだろうけど、地元にずっと土着して生きていると、いざというときは「仲間」ならぬ、地縁を媒介とした人的ネットワークに頼ることによって、仕事も結婚も、ひっとしたら金融(金の貸し借り)も何とかなる、という安心感がある。親が死んだらその土地・家屋を相続すればよいし、人生設計の中で最も重要な「住」に対する不安感がない。

山口   土地・家屋を相続するということは、歴史や慣習を引き継ぐことでもありますからね。明日も明後日も、変わらない自分の土台がそこにはある。その安心感は確かにうらやましいと思います。過去にあったものが今ある、そして将来もあるっていう気持ちは、「変わらなくてもいい」という今の自分への肯定につながるのかなと思ったり。自己否定がない限り、向上心も生まれないと、私、思うんです。自分に満足していない、だけど不満もない、ううん、そういうことを意識することすらない。それが幸せなのだろうかと。

古谷  そう、なんでこんなに社会は理不尽なんだという否定的観測から、向上心や社会改良は始まるのです。

山口  中学生のときに、階級上昇を目指して、おめかしして郵便局に行こうとして失敗したわけですけど(笑)。私は、もし今選べるなら、学校の中で上位にあって、何となく自分を肯定できるっていう道は選ばないと思います。自分がダメだって思うのはつらいけど、明日は少しましになっているだろうっていうのが、生きている実感というか。確かな手ごたえというか。

・ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの

古谷  僕も、すでに映画『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989年、伊、ジュゼッペ・トルナトーレ監督)の主人公(故郷シチリアを捨てて北イタリアへ出て成功する)の如く、故郷を捨てて、流浪の末、流れ流れて千葉県に至り、現在このような仕事に納まっているわけですが、結局、土地や故郷を捨てたことによって、土地に土着して生きる彼らと距離を置いた人生で良かったなとは、総論的に思います。逆に言えば退路はないのですが。失敗したからといて、故郷に帰ることはできない。山口さんはどうでしょうか、僕からすると、札幌から離れて悠々、大東京で大成功を収めている成功者に思えます。僕と同様、土地を捨てたことに対する未練は微塵もありませんか。それともありますか。

山口  私は、基本的にはいつも「帰りたいな」って思ってるし、一人のときはよくそう呟きます(笑)。うーん……でも、どうなんだろう。古谷さんは、土地に土着して生きている人を「リア充」と定義して、その人達は満ち足りた生活を送っていると書いてらっしゃるけど、私はそれだけではないと思うというか。土地を引き継いで、歴史や慣習を引き継ぐという話になったけど、それってしがらみも引き継いでしまうことなんでしょうね。親が生まれ育った土地に変わらず住み続ければ、当然、親の老いを、間近でまざまざと目にすることになる。それはそれで、きっとつらいんだろうなと。だから、私が「帰りたい」って思うときには、いつも「少女時代の札幌に帰りたい」って思うんです。大していいこともなかったようにも思うんだけど、いつも守られているというか、本当の意味での不安とかなかったし。

古谷  学歴もすごい上、官僚にもなって弁護士にもなったのは、十分な大成功ではないですか。

山口  うーん……私は、自分が成功していると思ったことはないんですよね。官僚にも、弁護士にも、私より頭が良くて、仕事ができる人はいるし、そのうち何人かはさらにとっても性格良かったりするし。そういうのを見るたびに「今のままじゃダメだ」「もっと頑張らなきゃ」って思って、それを延々と繰り返して消耗するというか……

古谷  でも、同世代に限ってみても、山口さんみたいに成功に達せない人が大半だと思います。そこに達せ無かった人がお手軽承認のSNSを駆使して「意識高い系」になるわけですよ。

・山口氏の米留学体験

山口  少し前に、「幸せ」の話になったけど、昨年、ハーバードに留学してて気づいたことがあって。今まで「自分が幸せかどうか」って全く考えてこなかったんだなって。「他人から幸せに見えているかどうか」ってそればかりを一生懸命考えてきたと思うんです。これが、さっきの成功の話に結びつくのですが。客観的に見て分かりやすい「成功の証」ばっかり集めちゃうんです、私。東大を出て、官僚になって、弁護士になって……これでどうだって。私は幸せに見えるだろうって。だけど、自分を守る鎧をいくら増やしたところで、その内側の自分自身は臆病な少女の頃の自分のまま。なんにも変わってない。自己肯定感とかも低いままだし。

 それがハーバードに留学して、鎧を全部はがれちゃったんです。私の日本での経歴とか教養とか通じなくて。ただの英語が下手な日本人ってだけ。この歳になって自分を守るものを何もなくして、ぽんと集団の中に放り込まれて、最初はほんとにきっついなと。

 で、ようやくできた香港のお友達に告白したんですね。「ここでは、私が私じゃなくなるみたいで怖い」って。日本の私は気後れせずに周囲と話せるようになってたのに、ハーバードの私はいつもどこにいても不安。「こう答えたけどよかったのかな? この人の機嫌を損ねてないかな?」って。おどおどした昔の自分に戻った気がしてたから。そしたら、その香港の子が、「だいじょうぶ。私は真由と話しててて楽しいもん」って。私、ちょっと拍子抜けしちゃったんです。そんなものなんだ。私と話してて楽しいんだ。じゃあ、もしかして今のままでいいんだって。自分は価値のある人間ですって社会にアピールするために、必死に成功の証を身に着けて、それを鎧のようにしなくてもいいのかなって。

 古谷さんが本で書いている土地を捨てた「意識高い系」と土着の「リア充」の区別っていうのは、なんていうか、ある意味、「意識高い系」の自意識の強さゆえの思い込みなのかもね。「リア充」ってすっごい強いって思って、それに比べて自分は無力って思い込んで、勝手に鎧を増やして、相手との間に垣根を作ってるのかもしれませんね。

古谷  土地に土着したリア充は恐ろしく無神経で優しい。もう和合できないなって思う(笑)。僕の場合も、おっしゃる通りどんなにやってもリア充になれないから、彼らとの階級闘争というか、最終決戦に備えなければならない、と常日頃から思って精神訓練を敢行しています。

山口  まるでマルクスですね。で、結局どこに行きたいのでしょう?

古谷  いやマルクスと言うより、石原莞爾の「世界最終戦論」を想定しています(笑)、でも結局、同属嫌悪なんでしょうね。「意識高い系」を冷笑する自分は、やはりその自分自身も「意識高い系」から抜け出せていない。まさに宿痾と表現したのはこのためです。

・私たちに救いの境地はあるのか?

山口  ま、なんだかんだハーバードで「自分のまま」を肯定することを学んだとか言いながら、私も、自分で作り上げた「意識高い系」の防御壁から、結局、まだ抜け出せてないんですけどね。とにかく、よくマウンティングしちゃうんです。「私、結婚する~」ってお友達にルンルンしながら宣言されると、上から見られたくないなって思う。それで、「相手はこんな人なのよ」とかって、彼女が嬉しそうに写真を見せてきたりしたら……

 まず、相手の男性の写真をじっと見るんです。それから一瞬沈黙して、少し口ごもりながら、やや言いにくそうに「う、うん……優しそうな人ね?」って曖昧に笑って見せる。

 これってけっこう嫌な反応でしょ? だって、「優しそう」って「他に見出すべき美点が見つからない」と同義でしょ? あえて相手を刺しにいくというか。よくここまでひねくれたものだと、自分でも思いますけど(笑)。

古谷  リア充=天然強者は額面どおり受け取ってくれるから傷つかないのですね。皮肉が通じない。

山口  私たちに解脱とかないのでしょうか?

古谷  リア充はそんなこと思わないからね。最終的に玉砕してでも良いから彼らと戦わないと……。

山口  じゃあ「意識高い系の研究」の中で、「意識高い系」をそこまで扱き下ろす必要なかったんじゃないですか(笑)。

古谷  僕、もう少し時代が前に生まれていたら、三里塚とか行ってたかもしれないって、いつも思うんです。根が、闘争的にできていて、被害者意識が前回なんです。自分より恵まれた同性の同年代を見ると、全部「打破すべき敵だ」と思ってしまうのです。

山口  うーん……さっきも言ったけど、被害者意識っていうのは「リア充」によって作られるものじゃなくて、自分自身によって作られているわけでしょ? リア充を倒してもそれがなくなるわけではないというか。自分はそのままでいいんじゃないかとか、そういう方向に持っていくほうが生産的なのは、おそらく古谷さんも分かってらっしゃるわけですよね? 自分に満足した瞬間とか、古谷さんにはないのでしょうか?

古谷  一度も無いですね。常に不幸の進行形です。総悲観。(後編に続く)

作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長

1982年北海道札幌市生まれ。作家/文筆家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長。一般社団法人 日本ペンクラブ正会員。立命館大学文学部史学科卒。テレビ・ラジオ出演など多数。主な著書に『シニア右翼―日本の中高年はなぜ右傾化するのか』(中央公論新社)、『愛国商売』(小学館)、『日本型リア充の研究』(自由国民社)、『女政治家の通信簿』(小学館)、『日本を蝕む極論の正体』(新潮社)、『意識高い系の研究』(文藝春秋)、『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)、『ネット右翼の終わり』(晶文社)、『欲望のすすめ』(ベスト新書)、『若者は本当に右傾化しているのか』(アスペクト)等多数。

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