「できないことは何もない!」車いすラグビーにパラサイクリング、型破りなアスリートが挑戦をやめない理由
ウィルチェアーラグビー(車いすラグビー)にパラサイクリング、そして起業。型破りなパラリンピアン、官野一彦氏
2023年がSTARTした。
昨年のFIFAワールドカップ(以下、W杯)カタール大会の名シーンが今も心の中で何度も甦るが、今年はWBC(野球)やバスケット、女子サッカー、ラグビーのW杯が開催される。
さらに来年の2024年は、パリでオリンピック(以下、五輪)とパラリンピックが開かれる。大会が大成功を収めて関係者の間からも高い評価を得て、映画『炎のランナー(Chariots of Fire)』の舞台となった1924年パリ五輪から、ちょうど100周年となる。
ここに一人のアスリートがいる。
失敗を恐れず、挑戦しつづける。言うのは簡単でも実際に行動できる人は、ほんのわずかだ。スポーツという限界に挑み続けるアスリートの背中は、いつも私たちに希望と勇気と明日へのアクションを与えてくれる。官野一彦氏、今回フォーカスを当てるのは、そんな中でもパラリンピック選手としてアスリートとして型破りな存在である。
22歳のときにサーフィンの事故によって下半身に障害を負い、車いす生活が始まった。一度はスポーツから離れたものの、ある出会いによって「ウィルチェアラグビー(車いすラグビー)」を知り、再びスポーツの世界へ。
その後もパラサイクリングへと競技を変え、さらに実業家としての顔を併せ持つという、人生の冒険家のような存在である。
今回はそんな官野氏と彼を応援するアスリートに特化したビジネススクール『Athletes Business United(以下、ABU)』の代表である中田仁之氏にインタビューをした。官野氏が挑戦を続ける理由とは何か?障害者スポーツが社会に与える価値とは?そして中田氏から見る官野氏の魅力について探る。
パラリンピックに出場したい。官野氏を突き動かした思いとは
ーまずは車いすラグビーを始めた経緯について教えてください。
官野 もともとは健常者として小学校1年生から高校3年生の12年間は野球をやっていました。その後、高校3年生で引退したのをきっかけに野球は辞めてしまいましたが、モテたくてサーフィンを始めたんです(笑)
するとサーフィンにどっぷりハマってしまい、5年間サーフィンばかりやっていたんですよ。今考えてみると、好きなことを見つけるとのめり込んでしまう性格なのではないかと。
しかし、23歳になる年にサーフィン中に波に巻かれて、海底へ頭から叩きつけられるように落ちるという大きな事故を起こしてしまいました。すぐに病院に運ばれて検査してみると、首の脊髄を損傷していることが発覚しました。そこから僕の車いす生活をが始まりました。
ーそうだったのですね…事故後はどのような生活が始まりましたか。
官野 事故後、1年間は入院生活が続き、2005年になってはじめて自宅に戻ることができました。入院中はただ普通に生きることすらも大変で、スポーツを再開しようと考えるほどの余裕もありませんでしたが、退院してから外出する機会があったときに偶然にも自分と同じ車いすに乗っている人と出会ったのです。
その人から「車いすラグビーを知っているか?」と聞かれ、初めて障害者スポーツについて教えてもらいました。だからといってその場で車いすラグビーを始めようとは思いませんでしたが、その人とはたまたま家が近かったのですぐに仲良くなりました。
その人と親しくなるにつれ、自分でも車いすラグビーについて調べてみると、ちょうど僕が障害を抱えることになった2004年に、アテネオリンピック・パラリンピックに初めて車いすラグビーの日本人選手が出場したことを知りました。
順位は8チーム中8位でしたが、この競技は確実に世界へとつながっているんだと思い、僕も車いすラグビーで世界を目指してみたいと思ったのです。
ー実際に競技を始めてみて、いかがでしたか。
官野 実際に始めてみるととてもおもしろくて、自分自身でも「才能があるかも」という予感を覚えました。そして練習を重ねる日々を送った1年後、僕は車いすラグビーの日本代表へ選出されることになったんです。
せっかくの日本代表の資格だったにも関わらず、自分は天才だと思い込んで僕は調子に乗ってしまいました。練習を怠り、周りのアドバイスも聞かなかったことが仇となり、2010年には日本代表から外されてしまったんです。
自分より経験の浅い年下の選手にもどんどん追い抜かされていくのが悔しくて、もう競技自体も辞めてしまおうかと思いましたが、それでも「パラリンピックに出たい」という思いだけはなくなりませんでした。
思い返してみると、それまでの自分はアスリートとしての行動を取れていませんでした。もう一度アスリートになりたい、そんな決意を胸に今までダメだとわかっていながらやっていたタバコやお酒も完全にやめて、ひたすらトレーニングに打ち込みました。
ー大変な状況ですが、同時にアスリートとしての復活のための時期のようにも感じます。その後はどのような展開に?
官野 そこから1年かけてまた日本代表に戻してもらい、初めてパラリンピックに出場したのが2012年のロンドン大会。メダルは取れませんでしたが、世界4位を記録しました。世界で
4位というだけですごいことだとある程度の満足感がありましたが、実際に家族が待つ成田空港に到着すると、そんな僕の気持ちを打ち砕く出来事があったのです。
それは空港でメダルを持っている選手だけが僕たちよりも先に通され、歓声を浴びていたことでした。歓声を上げていた人たちは10分ほど待たされてやっと歩いていった僕たちには目もくれません。
僕たちも世界に出て必死で戦ったのにも関わらず、たったメダルがあるかないかの差でここまで対応が違うのかということに対して怒りを覚え、同時に絶対にメダルを取らなければならないという強い思いに駆られた瞬間でした。
それから再びトレーニングを積み、4年後の2016年リオデジャネイロ大会で銅メダルを獲得しました。その後、金メダルを目指してアメリカに渡りましたが選手を続けるのが難しい状況になり、2020年車いすラグビーのキャリアを終えました。
「車いすラグビー」から「パラサイクリング」へ。競技を変更した決定的な理由
ーその後、現在やられているパラサイクリングに挑戦された理由は何でしょうか。
官野 2018年に車いすラグビーの選手としてアメリカのチームにいたことが大きなきっかけとなりました。日本では障害者スポーツは安全性を考慮して基本的には屋内で練習をします。しかし、アメリカでは健常者も障害者も関係なく、屋外で練習をするのです。実際に僕がグラウンドに出て練習していても、誰も注目してくることもなく、それが日常のように扱ってくれるのが新鮮でした。
ある日、メキシコ湾沿いのコースを走っているとルームメイトが「ドルフィン!ドルフィン!」と叫んで海を指差していました。指す方向を見ると、そこには野生のイルカが飛び跳ねていたんです。
僕はその美しい風景に感動したとともに、もしも自分がずっと日本の体育館で練習を続けて、アメリカに来る決断をしていなかったら、この景色は見られなかったのだと恐ろしさを感じました。このまま同じ競技を続けて、自分の得意分野だけに固執していれば、他の分野に挑戦することもできず、見られるかもしれない景色も見られなくなってしまうのではないかと思ったのです。
その後、車いすラグビーの選手として一区切りがついたことをきっかけに、また新たな競技に挑戦したいと考えて選んだのが、パラサイクリングでした。
パラサイクリングのなかでも手でタイヤを回すハンドサイクルの分野では、まだパラリンピックに出場している日本人はいません。今まで僕はスポーツ選手として「初めて」や「1番」になったことがないので、この競技で1番になりたいと思っています。
ー実際にパラサイクリングを始められて、選手として感じる競技の魅力はなんでしょうか。
官野 屋外を走る競技なので、暑さや寒さ、景色の移り変わりなどを直に体感できることが魅力だと思います。また、普段は体験できないようなハイスピードを感じられるのもおもしろさでしょうか。以前、東京の富士スピードウェイ付近で試合があったときは、下り坂を走るのに最大80キロものスピードが出て、とてもスリリングでしたね。
ただ、危険な競技でもありますし、実は僕も先日広島の中央森林公園で走ったときに一歩間違えていたら死んでいたかもしれないという事故もありました。いつ死んでもおかしくないからこそ、毎日を一生懸命に生きています。
ー車いすラグビーという団体競技から、個人競技をやるようになって変化したことはありますか。
官野 確実に言えるのは、すべては自分の責任になったということです。チームでやる車いすラグビーは自分のミスを誰かが走って帳消しにしてくれるし、逆に誰かのミスをカバーするために走っていました。
助けてもらっていたのは試合中だけでなく、チームを運営してくれるスタッフの方やスケジュールを管理してくれるマネージャーの方などたくさんの人の手で成り立っていたんですよ。それが個人競技になった途端に、スケジュール管理も遠征試合のエントリーもすべて自分でやらなければいけなくなったわけです。
僕はすごく恵まれていたんだと気がついて、すぐに以前のマネージャーに電話して「ありがとう。今まで本当にごめん、助けられていたことに気がつかなかった」と伝えました。そんなところに気がつけたのも、パラサイクリングを始めて変化した部分だと思います。
「障害者に優しくしよう」は正しいのだろうか!?
ー選手として考える、障害者スポーツが社会に与えられる可能性とはなんだと思いますか?
官野 ここではあえて障害者という言葉を使うとするならば、障害者は身体の機能をなにか失っているわけですよね。それにも関わらずスポーツに挑戦しているということは、障害者はできるかできないかではなく、どうやったらできるかを考えて生きてきた人々だと言えると思います。
人は大人になればなるほどできないことから目を背け、できない言い訳を探しますが、僕たちパラリンピアンは「それは違うんだ」ということを体現できる存在です。もちろん僕たちのスポーツを支えてくれる人々もいます。パラリンピックがオリンピックと大きく違うところは、健常者と障害者が共に戦えるところだと思うんです。
でも、結局は障害者側がスポーツをやる方法を考えなくてはならない。身体が動く動かないを言い訳にするのではなく、どうやったらできるか考え続けてきた集団だからこそ「言い訳は無用だ」とスポーツを通じて伝えられるのではないかと思います。
ーまだ世の中には「障害=不幸」というイメージがあると思います。このイメージは変わっていくのでしょうか。
官野 そのイメージを変えるのは無理だと思います。ただ、僕は「障害者には優しくしましょう」という道徳の教科書に載っているような言葉は間違いだと思っているんです。障害者であろうとなかろうと困っている人を助けるのは当たり前であって、健常者と障害者の区別は関係ないと思っています。
健常者であろうと障害者であろうと、できないことは人に頼み、できることは自分でやる。やりたいことのためであれば、人から無理だと言われても本気で取り組む。それが僕の変わらないポリシーです。
「セカンドキャリアなんて言葉はいらない」、中田氏との共感した考え
挑戦と挫折を繰り返し、ここまでやってきたという官野氏。質実剛健な彼であっても、歩んだ道は決して平坦なものではなかったということが言葉の端々から伝わってきた。
続けて、そんな彼がアスリートとして、そして一人のビジネスマンとして尊敬しているという中田氏との出会いについて話を伺った。
ー官野さんと中田さんが出会ったきっかけについて教えてください。
官野 2021年にコロナ禍によって流行っていた「Clubhouse」という音声配信サービスで初めて中田さんとお話ししました。
中田 官野さんの話を聞いて「彼の言葉は本物だ」とすぐに感じました。自分と考え方も似ていると感じたので、現在私が運営している『Athletes Business United(以下、ABU)』の前進である日本営業大学のYouTubeに出演していただこうとオファーしたんです。彼は快く引き受けてくださり、収録の際に会ったのが初対面でした。
ー官野さんと中田さんの考え方が似ているというのは、具体的にどのような部分でしょうか?
中田 「セカンドキャリアなんて言葉はいらない」という考え方です。彼自身も市役所で働きながらメダルを取って、現在は新たな競技に挑戦しており、ご自身の会社を経営しながら今もがんばっている。キャリアはずっと続いていくものでオーバーラップしてもおかしくないということを言葉だけでなく、実際に体現されているんですよね。アスリートが競技を終えた後は「第二の人生を過ごさなければいけない」という空気が蔓延しているなかで、彼のような考え方の人は珍しいと感じました。
官野 人生は一度しかないのに、セカンドもサードもないじゃないですか。トータルしてキャリアだと考えているので、キャリアをいかに作るかが大事だと思っていますし、自分が障害者スポーツを始めた瞬間に「このスポーツじゃ食っていけない」とすぐわかったんですよ。
スポーツで生計を立てていくことは期待していませんでしたが、このスポーツをやることで自分にとってどんなキャリアが築けるか、またそのキャリアを使ってなにをするかは常に考えていました。
しかし、アスリートは目の前の競技だけに集中しなくてはならない風潮もあったんです。でも、そういう人たちは誰も僕の人生の責任を取ってくれないわけです。僕はそんな言葉は聞かずにやってきましたが、パラリンピアンのなかでも圧倒的に今までの人生やキャリアを活かしてビジネスや新たな活動をできている自負があります。
パラリンピックのスポーツで飯は食えないとわかっていても、スポーツをやっている意味を持たなければいけないと思い、キャリアを築けるようにがんばってきました。僕はスポーツに価値を感じていますし、一生をかけてスポーツの啓発や普及に取り組んでいきたいと思っているので、セカンドキャリアを描くよりもそれまでのキャリアで得てきたものを転用することのほうがよっぽど大事だと考えています。
今後は、そんな考え方を広めていきたいですし、僕自身が体現する存在としてトップを走りたいと思っていますね。
中田 彼は自分の持っている「パラリンピックのメダリスト」というカードを最大限に使う方法を考えられる人なんですよ。ただ肩書として使うのではなく、ブランディングに活かし次に繋げていく力が彼にはあると思っています。
ー中田さんから見た、官野さんの魅力とはなんでしょうか?
中田 人間臭くて、ストイックなところですね。やるときはやる、遊ぶときは遊ぶ。オンオフの切り替えが上手くて、人としてのバランスがすごくいいと感じます。また、人に助けてもらうのが上手なところも彼の長所です。彼のまわりにはそんな彼を応援したいという人がたくさん集まってくるんですよ。人間力の高い方が発するエネルギーと同じものを彼から感じます。
官野 自分にできないことが多いとわかっているので、人に助けてもらわなければいけないんですよね。自分より能力がある人を尊敬しているからこそ、ただもらうだけの人間にはなりたくないので、自分でできることは自分でやり、やりたいことのために助けてもらってきました。そのためにも自分のできない部分を認め、向き合ってきたと思います。
障害者が暮らしやすい社会=誰もが暮らしやすい社会
ー官野さんは車いすラグビー引退後に起業されたそうですね。そのきっかけを教えてください。
官野 2019年に日本代表を外されたとき、僕の目の前からたくさんの人がいなくなったんです。今までやってきたことはなんだったんだろうと思いましたが、そんななかでも声をかけてくれる人がいたり、一緒にがんばろうと言ってくれる中田さんのような人もいました。それが嬉しくて、僕はこの人たちのためになにかやらないといけないと思いました。それまでは、自分にばかり目を向けていましたが、初めて人のためにがんばろうと思えた瞬間でした。
では、自分になにができるのかと考えたときに、スポーツマンとして自分がもう1回挑戦する姿を見せたい。パリでメダルを取ったら、きっとその人たちも喜んでくれると考えると自分自身も嬉しいことに気がつきました。そしてもう1つは障害者として同じ境遇の人を助けることです。以前市役所で働いているときは助けられなかった人もたくさんいたため、その助けられなかった部分や自分が実際に困ったことを解決したいと思ったんです。
そのなかでもジムでの経験を思い出しました。僕自身がジムに入りたいと思っても、部屋や器具が汚れるからダメ、介助する人がいないとダメなどの理由で断られつづけてきたんですよね。そんな断られてきた人を助けたいと思って、障害者用ジムの開業を決意しました。
また、自分が家を建ててうまくいかず失敗していたので、障害者用の住居コンサルをするなど、自分のキャリアを活かした社会のためになる事業を模索しはじめたのが起業のきっかけです。
ー事業を通じて目指してきたことは何でしょうか。
官野 僕の会社のミッションは「障害者の幸せが社会を幸せにする」ことで、少しでも障害者の方が住みやすい世界を目指しています。障害者が住みやすい=子どもや高齢者も住みやすいということだと思うんです。誰もが身体を自由に動かせなくなる日は来るので、障害者のためと言いながらも、最終的に自分たちのための社会ができあがるということ。僕がやってきた事業はそんな認識してもらうための活動の1つだと考えてきました。最近では、事業の一貫として学生さんや社会人に向けた講演会にも頻繁に登壇しています。
中田 官野さんの講演は私もよく拝見しますが、彼の生き様はそれ自体がストーリーで、しかもそれを飾り気なく素直な言葉で話してくれるという魅力があるんです。普通ならカッコつけて美しく話す人が多いですが、彼の純粋な言葉は大人が聞けば感動しますし、子どもが聞けば目がキラキラと輝くんですよ。
ー起業したからこそ新たに見えてきた気づきはありましたか?
官野 やはり、ジムを開いたときと閉めたときにさまざまなことに気がつきました。事業を立ち上げた当時は右も左もわからない状況だったので、銀行からお金を借りるにも1から調べてやらなければならないことが山ほどあって難しさを感じました。また、銀行からこの金額なら貸せると提示された数字を見たときは、自分の価値はこのくらいしかないんだなと実感しましたね。
「自分がやりたいからやるんだ」と決心して始めたジムが赤字が続きで閉店したときは、赤字の事業には社会的に価値がないのだということに気がつきました。本当に必要な事業ならその分お金も返ってくるわけです。
現在はジムを開業する際の借金を返しているところですが、これも1つの経験ですし、閉めたからこそわかったこともたくさんありました。
結論を言うと、中田さんが教えているようなことは誰も知らないわけです。最初から知っていれば、僕もこんな結果にはならなかったかもしれません。だからこそ、中田さんのようなアスリートを育てる事業をもっと広めていきたいですね。
中田 ABUでは現役選手や既に引退した選手達がビジネスの基本を学んでいます。
同時に、共に学ぶアスリートの多様な価値観や生き方に触れることで、視野が広がり挑戦意欲が高まります。これまでスポーツで培ってきた「非認知能力」を磨き高め、一般社会で活躍するためのビジネススクールです。
私は「引退後の生活に困るアスリートをゼロにする」というミッションを掲げてABUを運営しています。今後も様々な文脈でアスリートをサポートしていきます。
「モテたい!」という気持ちがパワーの源
ー挫折や葛藤を乗り越えながら、現在も挑戦を続ける官野さんですが、その行動力の源はなんでしょうか?
官野 「モテたい!」という気持ちですね(笑) これを言うとみんなに笑われますが、言い換えると「誰にでもみんなに応援されたい」という意味なんです。異性に恋愛感情を向けられたいという意味ではなく、人から認められたい、応援されたいという気持ちをカジュアルに表すために使っている言葉です。
老若男女問わずすべての人にモテるためには、人のために突き抜けてがんばれる人間力の高い人間になる必要があります。
中田 彼は周りが無理だっていうようなことにとことん挑戦できる人間なんですよ。しかも結果を出しつづけている姿は本当に尊敬しますね。
官野 世の中を変えられる人って、普通じゃないことを考えている人じゃないですか。だからこそ、僕も普通じゃない人間でいたいと思っているんです。
ー今後の展望について教えてください。
官野 まずはパラリンピックのパリ大会が勝負なので、そこに向けてトレーニングを積んでいかなければなりません。ただ、より強くなるために遠征するにもお金が必要で、個人競技の場合は自分で払わなければいけない。そして、そのお金を集めるためには強くならなければならない。
鶏が先か卵が先かという話しですが、そのお金を集めるためにも会社をやったり、スポンサーを探して行く必要があります。それも、ただお金をもらうだけでなく一緒に夢を叶えたいと思ってもらえるようにしたいと思っています。
中田 そんな彼を応援するために、来年はABUとして「トークン」の発行など様々な計画を立てています。
官野 また、アスリートとしては、指導者を指導するNPO法人を作りたいと思っています。その指導者には日本代表レベルの誰に見せてもキャリアを疑いようがないような選手にお願いして、小中学校の生徒の教える指導者あるいはボランディアの方に僕らの講習を聞いてもらわないと子どもに教えてはいけないという状況まで持っていきたいです。
そうすることで生まれるのは、1つは健全な指導者、そしてもう1つはアスリートのキャリアの育成支援です。アスリートを僕らの団体に呼ぶことができれば、全国でその地の風土や文化にあわせたスポーツでアスリートが社会に貢献できる機会を作れるわけです。
アスリートとNPO法人と行政、その三者が損をしない仕組みを作れば、子どもたちに質の高いスポーツ指導を提供でき、さらにはアスリートがキャリアに希望を持てるのではないかと考えています。これは2024年には達成したい目標ですね。
あと、個人としてパラリンピックのパリ大会を終えたら、サンディエゴからフロリダのジャクソンビルまでの3700キロの道のりを自転車で横断したいと思っています。僕は誰もやったことがないことをやりたいので、さらにオリンピック・パラリンピック史上、ファンの方に一人ひとりメダルをかけに行ったアスリートはいないと思うので、「日本一周ありがとうの旅」を北海道から沖縄までやっていきたいです。
中田 こんなアイデアが出てくるのも彼ならではですよね。そして、その夢を周りのサポートを借りて実現していけるのが彼の力です。
ー最後に読者の方にメッセージがあればお願いします。
官野 何度も言いますが、できないことなんて何もありません。イメージできることは必ず叶いますから、そのためにビジョンを持つ必要があります。
ビジョンはモノクロよりカラーのほうがいいし、そこから匂いや感触を感じられるようになったら僕は必ず叶うと思う。できないことがあったとしても、それをできるようになる方法を考えるのが僕は1番楽しいと思っています。難しいゲームをクリアするために積み上げたことは、未来に繋がります。
未来は今の積み上げであり、今がんばれない人は明日もがんばれないんですよ。今この瞬間を生きることが最も大事なことだと思います。
たとえそれで倒れたとして、アスリートとしては失格でも、僕のポリシーには反していないので、それでいいんです。
終始、嘘のない言葉でインタビューに答えてくださった官野氏の姿勢は我々の心を強く打った。困難に立ち向かいながらも、決して歩みを止めない姿は多くのアスリートのモデルとなるかもしれない。これからも彼の挑む背中を追っていきたい。
*官野氏も学ぶアスリートに特化したビジネススクールでは、アスリートの採用に興味がある企業様を対象にした「事業説明会」を開催しています。人材不足に悩む経営者様または採用ご担当社様、学長の中田氏が個別でお話されますので以下からお問い合わせいただければと思います。
https://timerex.net/s/abu-sales/51230fb7
◯プロフィール
官野 一彦(かんの かずひこ)
日本ウィルチェアーラグビー界を牽引したキープレーヤーの一人。
決して試合中は表情を出すことなく自分に課された仕事を積み重ねる試合巧者。緻密な計算高いプレーには定評があり、海外の大柄な選手とのマッチアップでも躱すチェアワークで翻弄し、相手チームのペースを乱し、2016年のリオパラリンピックでは悲願のメダルを獲得。2018年世界選手権(シドニー)で優勝。
現在は、自転車に競技変更をし、次のパラリンピックに向け挑戦を続ける。
中田仁之(なかた ひとし)
株式会社Athletes Business United代表取締役/中小企業診断士
1969年大阪生まれ。幼少期より野球一筋、関西大学在学時には体育会準硬式野球部に所属、4回生の夏に大学選抜メンバーに選出され海外遠征を経験。「JAPAN」のユニフォームに袖を通し海外で君が代を歌うという経験を持つ。
競技を終えたアスリートはもっと社会で活躍できるという信念のもと、セカンドキャリアという言葉がアスリートに使われない社会を創造するために、アスリートのネクストキャリアを支援する「日本営業大学(現Athletes Business United)」という日本初のアスリートに特化した教育機関を2020年に設立する。
現在、Jリーガーほか様々な競技に取り組む現役選手や引退した元アスリートから大学生まで、のべ260名のアスリートに対しビジネス教育を提供、就職や起業、地方創生や就農など一人ひとりに合ったネクストキャリアをプロデュースしている。
*記事中の写真・画像は官野一彦氏提供
(了)