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樋口尚文の千夜千本 第43夜「ディアーディアー」(菊地健雄監督)

樋口尚文映画評論家、映画監督。

シカの里のリアリティ・バイツ

ボルヘスに「悪党列伝」という本があるけれども、本作『ディアーディアー』はさしずめ「ダメ人間列伝」だ。舞台となっている郊外の風景もなんだか場末のシケた感じに撮られているのだが、とにかくそこに去来する数々の男女が例外なくダメな人たちである。ただし、同じダメ人間づくしの映画でもたとえば冨永昌敬監督『ローリング』が映画の文体もそのルースさに共振した緩さ、不安定さを志向していたのに対し、『ディアーディアー』の文体はダメ煉獄を描いてなおまっすぐで素朴な感じだ。これはやはり監督の人となりを映してのことだろうか。

主人公は山あいの田舎に実家のある三人きょうだいで、兄(桐生コウジ)は父のあとを継いで地場に粘るも借金を抱えて懊悩、妹(中村ゆり)は故郷を捨てて東京に出るも依存症のふしがあって薄幸の極み、弟(斉藤陽一郎)はやはり田舎から出たものの躓いて見栄っ張りな虚言を発しまくっては悶絶。いったんばらばらになって、妹と弟の帰還によってたまさか再結集したこの三人が、この居心地のよくない故郷でいったい何をやらかすか、という物語である。このへんまではよくありそうな着想なのだが、ここに一種象徴的に題名の由来である「リョウモウシカ」という謎めいたシカの記憶を絡ませたのが、なかなか思いつかない非凡なアイディアだ。

要は、この今やダメさにあえぐ三人きょうだいにも幼い時分に麗しいいっときの思い出があって、それはこの幻の「リョウモウシカ」の目撃者として町じゅうでもてはやされたということだった。いわば以後の生涯でありつけなかった晴れがましさの象徴が「リョウモウシカ」なのである。ところが、ここがまた複雑なのはどうもその目撃談がガセだったのでは、ということになって、一転きょうだいは町じゅうのバッシングに遭い、父があちこちで頭を下げてお騒がせを陳謝するはめになった(らしい)。本当に「リョウモウシカ」が存在するのかどうかは遂に判らない(幻は見えたかもしれない)のだが、とにかくこのシカの記憶はきょうだいにとっては極めて甘美な、そして同時に極めて忌まわしい、大きい振れ幅で愛憎半ばするイメージなのである。

シカ事件からずいぶん時を経た今もなお、あいかわらず時々口の端にのぼる「リョウモウシカ」は、きょうだいや周囲の人物たちのキャラクターを炙り出す踏絵のようだ。弟は親しい友人と飲みながら、自分が現在もくすぶっているのは、あのシカ事件が原因なのだと口走ると、友人は案外手厳しくそれはシカのせいではなくおまえ自身の問題だとどついてくる。事ほどさように、なんとなくこのきょうだいにはあのシカ事件が自分たちがシケた現況へ至るターニング・ポイントだったのではないかという思いの共有があって、特にその思いが強い弟、それを諌めつつも自らも縛られている兄、こんな二人をナンセンスと唾棄する妹・・・と受け止め方の落差はあれど、ニヒルな彼らの表情はその映像としては一切描かれないシカ事件で被弾した心的外傷を今に留める感じである(言うまでもなくその責任転嫁ぶりが何より彼らのダメさを招来するものなのだが)。

さて、本作ではそのシカ事件の挿話で物語られる地方の町の閉鎖性や陰湿さ、いかがわしさを体現するダメ人間たちが三人きょうだいの周囲にうろうろしている。故郷に帰還した妹に欲情して不貞をはたらく不動産屋(山本剛史が本当にけったいな感じを好演)、その妻で妹に偽善的に接近してくる元クラスメート(松本若菜)、妹に離婚をつきつけられて情けなく追いかけてくる夫(柳憂怜)、兄にキッチュなインチキ商売を持ちかける強欲な坊主(佐藤誓)、そのたちの悪い息子で兄をさらに悪事に引っ張り込むニート(染谷将太が不穏な感じを醸して出色)弟に優しく寛大に接するほどに何か油断ならない友人の運転手(政岡泰志)・・・とまあ絢爛たる「ダメ人間列伝」が展開され、この憂鬱な場末の町は和製ツインピークスみたいな様相を呈してくる。この各々の癖あり過ぎのキャラクター描写は巧みで、陰険な田舎町の雰囲気の表現ともども本作の最も面白いところである。

そしてこうした人びとに囲まれたきょうだいの感情が遂に露骨に爆発する後半の葬儀の場面はとても面白いが、ここは本来クライマックスとしてもっと弾けていいところかもしれない。というのも、前半からくだんの曲者キャスト陣によるシニカルな小爆発がちらほら続いていて、それの集大成としてのこの葬儀のカオス・・・というめりはりにやや欠けるため(といってそのめりはりを意識的に排除したルースさを売りにした作品でもないので)、ちょっとここぞという盛り上がりに乏しい。われわれはお葬式爆発映画ないし祭壇ぶっ壊し映画の名作として大島渚の『儀式』という傑作を知っているが、たとえばあの作品も全篇がキテレツなのに葬式のクライマックスは異様な盛り上がりを見せていたので、全体の構成のいいお手本になるかもしれない。また、この大きい構成でのチューニングにもつながることなのだろうが、細かいところではキャラクターの強い三人きょうだいに扮したキャストたちの演技が、ハーモニーになっているというよりは各人のやりたい事を尊重している感があり、結果誰が主人公なのかがやや見えにくいのであった。クレジット的にはあいかわらず好演の中村ゆり(は、繊細でナイーブな役がおはこだけれども、けっこうこういったハスッパな役柄が来ても楽しそうだ)が主役だが、それにしては桐生コウジの兄が脇を固める域を越えて張り出してくるし、斉藤陽一郎の弟は役柄の突飛さで周りを喰ってしまう(かといって演出はたとえばロバート・アルトマンの集団劇のようにみんなを主人公として緩く”放牧”している感じでもなく、もう少しきっちりとしたタッチを志向しているようなので)。

しかし、まあそういった事どもはこの際瑕瑾と言うべきであろう。なぜならこれは、さまざまな名監督たちに助監督として愛された菊地健雄監督が決して潤沢とはいえない制作条件のなかで撮りあげた監督デビュー作であり、くだんのような演技のばらつきも、きっと監督が俳優たちを愛し、好きにさせてあげようという優しさの賜物に違いない。この作品はどこか、随所の少々の緩さやばらつきが観る者に不思議と負の感情を招かず、それはそれで朴訥な風味でいいやという感じに思わせるところがある。つまらん批評家や生真面目な観客はともすればしかつめらしい厳格さを監督術の至上命題と考えがちだけれども、こんな初めて映画を演出する喜びのもと、監督がスタッフやキャストを尊重して愉しげに紡いだ作品にはまたそういうよさがあるものだ。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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