【富田林市】400年の歴史がある喜志新家地域を歩いて遊園まで来ると、その横に近鉄電車が走っていました
近鉄喜志駅の周辺は、江戸時代、5つの郷から構成された喜志五郷と呼ばれる大きな村でした。明治時代に入ると、さらにふたつの郷が加わり七郷となったそうですが、その新たに加わった中に、喜志新家という地域があります。
喜志新家(新家村)では、去年、開村400年ということで盆踊りが行われました。あいにくそれには行けませんでしたが、秋祭りのだんじりでは、美具久留御魂神社で行われた河内俄(にわか)が行われ、楠木正成を題材にした演目が奉納されていました。
また別の話題では、喜志新家のだんじりを2019年に新調したというニュースもありました。それによると、楠木正成・正行関係のエピソードと、地元と関係が深い伝承約20場面をだんじりの彫刻に加えているそうです。そういう話を知ると、郷土愛が強い地域なんだと思いました。
さて、先日喜志に行く機会があったので、喜志新家の周辺が現在どうなっているのか歩いてみることにしました。
ちなみに喜志新家の「新家」とはどういう意味があるのか調べてみました。新家は全国各地にその地名があり、富田林市内でも喜志の他に近鉄川西駅とすばるホールの間にも「新家」という地名があります。
この新家は名前の通り「新しい家」という意味で、元々の有力者の本家から分家した新しい家とのこと。喜志新家も喜志から分かれた新しい場所という意味があるのかもしれません。
ところが、もうひとつ、河内国の新家について調べると、古代豪族の新家氏(にいのみうじ)というのが出てきます。これは古代の有力豪族、物部氏(もののべうじ)の分家とのこと。
またかつての旧丹比郡(たじひのこおり:現在の松原市・堺市美原区、堺市東区の全体と、堺市、大阪市、藤井寺市、羽曳野市の一部)を支配していた丹比新家連(たじひにいのみむらじ)という大豪族の存在があることを知りました。
特に後者は、富田林の北側が支配地だったので、何らかの関わりがあるのかもしれません。
今回はこんな感じで歩きました。盆踊りの会場となった喜志新家遊園を目指します。ちなみに赤で囲った中が喜志新家と呼ばれる地域です。正方形に限りなく近い形をしているんですね。
喜志新家の歴史を調べてみると、前述した村が出来て400年ということ、明治時代になって喜志村に含まれた(喜志五郷に加わって七郷)こと以外には、残念ながらあまり歴史的な情報は出てきません。
ただ富田林市文化財デジタルアーカイブで公開中の富田林史(外部リンク)で調べると、興味深いものがありました。
古代の律令制の時代から現在まで、旧古市郡(羽曳野市)と旧石川郡(富田林市)との境界が、現代まで継承されているそうです。これは隣にある平町も含めてですが、そんな情報を見ると、改めて歴史を感じる地域だと思いました。
喜志町から喜志新家町に入ったところで、非常に水深が浅くて幅が広い用水路があり、用水路沿いに細い道が続いていました。
用水路は、長くずっと続いていますね。
5分くらい歩いたところで、正面に金網で囲まれている場所を見つけました。あそこが喜志新家町遊園のようです。
喜志新家町遊園は利用時間が決まっているようで、朝9時から夜の18時までです。
喜志新家遊園の中に入ってみました。
ベンチがひとつあったので、少し休憩することにしました。
いくつかの児童遊具があります。
遊具のないところが広くなっています。夏になればここで盆踊りが行われるわけですね。
児童公園の定番、ブランコもあります。
このように周りにほとんど邪魔なものが無く、ラクダのこぶのような二上山も見えることから、近鉄電車の撮影にもよいかもと思いました。
画像からも見えますが、もっと近づける位置に道路があるようです。ただし、ここは複線の直線区間なので、電車はけっこう飛ばしています。あまり近づくと危険なのでこのあたりからの方が無難なのかなとも思いました。
ということで、喜志新家地域の喜志新家町遊園までプチ散歩をしました。実は歴史のある地域、喜志駅から徒歩10分以内にあるので、時間があるときに喜志新家町遊園までプチ散歩はいかがでしょうか?
喜志新家町遊園
住所:大阪府富田林市喜志新家町1丁目9-1
利用時間:9:00~18:00
アクセス:近鉄喜志駅から徒歩7分
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