友人の犯行を阻止しないのは犯罪か
■はじめに
最近、こんなニュースがありました。
マスコミの報道を総合すると、当時、このマンションの部屋には、今回無罪になった研修医の他に2名の男性がいました。そして、被害女性が泥酔しているのに乗じて、別の元研修医が犯行に及んだようです。この元研修医には、すでに5年の懲役刑が確定しています。上記の男性研修医も準強姦(現在は準強制性交罪)で起訴されましたが、被害女性がかなりの酩酊状態にあり、男性研修医が犯行に及んだと認定するには疑問が残るとされたのでした。この男性研修医は、「その場にはいたが、乱暴はしていない」と無罪を主張していたということです。
報道は断片的で、もう一人の男性はどうなったのか、当時の具体的な状況はどうであったのかなど、事件の詳細はよく分かりませんが、少なくとも研修医はその場にいて、友人の犯行を阻止しなかったことは事実のようです。そこで以下では、あくまでも一般論として、友人の犯行を阻止せずに黙認していた場合に、その刑事責任はどうなるのかという点について解説したいと思います。
■何もしないことが犯罪になる場合がある
刑法に規定してあるほとんどの犯罪は、「殴る」とか、「刺す」とか、「火をつける」といったように、何か積極的な動作を行う場合です。このような犯罪を作為犯(さくいはん)と言います。暴行罪や傷害罪、殺人罪や放火罪など、ほとんどの犯罪は作為犯です。
ただ、このような作為犯も、〈何もしない〉という不作為(ふさくい)で犯すことも時には可能です。たとえば、(時折ニュースになりますが)親が子どもに食事を与えずに餓死させる。これは、親には子どもを養育する法的な義務があるにもかかわらず、親がその義務を尽くさないことによって殺人罪を犯している場合です。
ただし、ここで重要なのは、この義務はあくまでも〈法的な義務〉であるということです。たとえば、深夜、帰宅途中に、道端で吐しゃ物にまみれて寝ている見知らぬ泥酔者を発見したが、自分の服が汚れるのを嫌って、その人が窒息死するかもしれないと思いながらも、そのままにして通り過ぎたところ、結果的にその泥酔者が窒息死したとします。すべての人には「困った人を助けるべきである」という倫理的な義務はあるでしょうが、〈法的な義務〉はありませんので、この場合、いくら死の結果を予見していたとしても殺人罪にはなりません。
刑法は基本的に〈悪を行うな〉という禁止の体系であり、〈善を行え〉という命令を刑罰で強制するようなものではありません。重大な利益が損なわれようとする場合についてのみ、例外的に一定の者に法的義務を課し、その者について〈その利益を保護せよ〉という命令を課しているのです。なお、その法的義務は、一定の作為に出ることを命じるものですので、作為義務と呼ばれています。
作為義務は、一般論として言えば、法律の規定や契約などにもとづいて、危険に直面している利益を救うことが社会的に期待されている場合や人間関係において問題になります。たとえば、先ほどの親子の関係や、教師と生徒間などの保護関係、警備員と依頼主といったような契約関係から作為義務は生じますが、みずから危険な状態を引き起こしたような場合には、その危険を除去する義務も生じます(先行行為にもとづく作為義務)。たとえば、倉庫の管理者が扉を閉めたとたん、中から子どもの遊ぶ声が聞こえてきたような場合、管理者には子どもを開放する法的義務があります。さらに、他人が救助できないような状態を作り出した者にも、作為義務は生じます。たとえば、上の泥酔者の例で言えば、かりにいったん家に連れて帰って保護を開始したような場合は、他人が救助できないような状況を作り出したので、警察や救急に連絡するなどしない限り、その保護を勝手に放棄することはできません。
■他人の犯行を阻止しなかった者に刑事責任が問われたケース
以上が不作為犯の論理ですが、このことは共犯の場面にも妥当します。判例は古くから、他人の犯行を阻止すべき法的義務ある者が、その義務を尽くさない場合に、不作為による共犯(ほう助犯)を認めています(なお、実行者との間に意思疎通があれば共同正犯が問題になりますので、不作為のほう助が問題になる場合とは、傍観者が一方的に黙認しているような場合です)。
たとえば、(1)保険金詐欺の実行犯について、その事情を知りながら保険会社に報告しなかった代理店主に詐欺罪のほう助を認めた大審院昭和13年4月7日判決、(2)物資配給制度があった時代に、町内会長が他人の世帯人員の異動を知りながら放置して不正受給を容易にしたという事案で、詐欺罪のほう助を認めた大審院昭和19年4月30日判決、(3)工場の倉庫係りとして製品の搬出管理を担当していた者が、同僚が製品を盗み出すのを阻止しなかったという事案で、窃盗罪のほう助を認めた高松高裁昭和28年4月4日判決、(4)踊り子のわいせつ行為を黙認したストリップ劇場の責任者に公然わいせつ罪のほう助を認めた最高裁昭和29年3月2日判決、(5)実行犯が人気のない山中で殺害を行った10分間、現場を離れて殺人を阻止しなかった者について、殺人罪の不作為によるほう助を認めた大阪高裁昭和62年10月2日判決などが有名です。
また最近では、児童虐待のケースで不作為のほう助が問題となっており、(6)内縁の夫や交際相手などが自分の子どもに暴行を加え死亡させた場合において、これを制止しなかった母親に傷害致死のほう助を認める札幌高裁平12年3月16日判決や名古屋高裁平17年11月7日判決などがあります。学説でも、他人の故意の犯罪行為に対し、作為義務に違反してこれを阻止しない行為を不作為のほう助とする見解が多数です。
■まとめ
原則として〈禁止〉に対する違反、つまり、作為を処罰する刑法では、不作為の処罰は例外です。また、ほう助は必ず減刑され(刑法63条)、特別な場合にだけ処罰されます(刑法64条)ので、他人の犯行を阻止しなかった者を不作為のほう助犯として処罰するのも、例外中の例外だと言えます。したがって、問題となる作為義務も厳格に考える必要があります。不作為のほう助で、どのような場合に作為義務が生じるかについては議論がありますが、本件の特徴としては次のようなことが言えるかと思います。
- 密室で起こった事件であり、他人が救助(犯行阻止)を行う可能性はない。
- 被告人もそのような状況を作り出すことに結果的に関与していた。
- 犯された犯行が(魂の殺人と言われるほどの)重大な犯罪である。
- 友人の犯行を阻止することが被告人にとって著しく困難であったとは考えられない。
- 被告人が友人の犯行を阻止する何らかの行為に出ていたとすれば、犯行がなされなかった可能性は高かったと思われる。
学説によっては、このような場合に、(1)排他的支配(他人による救助(犯行阻止)が不可能)、(2)危険創出(危険な状況の作出への関与)、(3)他人の犯行阻止の容易性、(4)犯された犯罪の重大性などを根拠に、作為義務を認める見解も有力ですので、そのような見解に立てば、友人の犯行を阻止しなかった者が不作為によるほう助の責任を問われることも、事例によってはありえます。なお、本件では無罪の判決が出ていますので、その結論は尊重したいと思います。(了)