難航した感染対策、地方病と人々の戦い
人類の歴史は病気との戦いの歴史と言っても過言ではありません。
日本においても甲府盆地にて地方病が蔓延しており、地方病との戦いは山梨県の歴史に大きな比重を占めているのです。
この記事では地方病との戦いの軌跡について引き続き紹介していきます。
子どもへの啓発
地方病は、ミヤイリガイが生息する水辺でセルカリアに感染することで発症します。
特に水田耕作に従事する農民は常に感染の危険性にさらされていますが、子供たちの川遊びなど、不要不急の行動による感染は防ぐことが可能です。
このため、子供たちへの啓蒙対策が急務となり、三神三朗も自身が校医を務める小学校で感染予防を訴えました。
しかし、複雑な感染メカニズムを子供たちに理解させるのは困難でした。
そこで、山梨地方病研究部は1917年に、イラストを多用した予防冊子『俺は地方病博士だ(日本住血吸虫病の話)』を作成し、2万部を有病地の小学生に無償で配布したのです。
冊子は地方病の感染リスクやミヤイリガイの危険性を子供にも分かりやすく解説し、絵本のようなストーリー性を持たせた内容で、教師たちが授業で読み聞かせることを義務付けられました。
特にセルカリアが活発になる夏場には川での水泳が厳しく禁止されました。
しかし当時の甲府盆地では風呂や上水道がない家庭が多く、子供たちの行水を完全に制限するのは難しかったのです。
そこで小中学校のプール設置が県の補助事業として進められ、感染防止に努められました。
難航した感染対策
日本住血吸虫の中間宿主はミヤイリガイという特定の巻貝ですが、最終的にはヒトを含む哺乳類全般が終宿主となります。
ヒトの糞便に含まれる虫卵から孵化した幼虫(ミラシジウム)が水中のミヤイリガイに感染することで、感染源が拡大するのです。
このため、ヒトの糞便を貯留して虫卵を腐熟させ殺滅する改良型便所の設置が奨励され、一定の効果を上げました。
しかし家畜や野良動物の糞便を管理することは困難で、感染源を断つには限界があったのです。
1933年には、家畜動物の糞便検査と健康管理が義務付けられ、特にウシから感染感受性の低いウマへの切り替えが推奨されました。
また、糞便を収集して肥溜めに集めることや、野糞の厳禁が学校で指導されたのです。
さらに、1943年には東京高等獣医学校の調査団が現地に赴き、家畜への感染状況を調査し、野生動物の捕殺や愛玩動物の管理監視が強化されました。
地方病の感染防止には、農作業時に脚絆や腕袋を着用し、セルカリアとの接触を回避するよう指導が行われました。
杉浦健造とその娘婿である三郎は、郷土医として地方病患者の治療に尽力しつつ、予防知識の啓蒙活動にも力を注いだのです。
しかし、感染防止策が効果を上げないことに失望した二人は、ミヤイリガイの撲滅こそが根本的な解決策と考えました。
二人はその天敵であるホタルの幼虫を育てるための餌となるカワニナやアヒルを飼育する施設を設け、私財を投じて活動を開始したのです。
この取り組みはやがて官民一体の撲滅運動へと発展し、1925年に「山梨地方病撲滅期成組合」が結成されました。
この活動は71年後の終息宣言まで続き、山梨県民一丸となって進められたのです。
健造の死後、その遺志は三郎が引き継ぎ、1947年には昭和天皇の地方病有病地視察を案内しました。
三郎はその後も地方病撲滅のための塗り薬の開発や、進駐軍関係者との意見交換を行い、さらに「山梨県立医学研究所」の初代地方病部長として行政や医療関係者との調整役を務めました。
彼は1977年に往診先で倒れ、そのまま他界しました。
彼の家は後に「昭和町 風土伝承館 杉浦醫院」として公開され、地方病に立ち向かった人々の足跡が後世に伝えられています。
また、三郎以外の地方病解明や治療に尽力した郷土医や研究者も、太平洋戦争前後に次々と亡くなりました。
三神三朗も晩年まで研究と治療に尽力し、1957年に85歳でその生涯を閉じたのです。
彼らの努力は地方病終息の礎となり、後世に大きな影響を与えました。