樋口尚文の千夜千本 第40夜「赤い玉、」(高橋伴明監督)
奥田瑛二ならではの瘋癲(初)老人日記
高橋伴明監督の新作『赤い玉、』を観て、あらためて奥田瑛二という俳優は凄くいいなあと思った。そもそも高橋監督の作品は、『TATOO〈刺青〉あり』の高橋惠子、宇崎竜童にせよ『獅子王たちの夏』の哀川翔、的場浩司にせよ、『愛の新世界』の鈴木砂羽、片岡礼子にせよ、『火火』の田中裕子にせよ、映像の文体や技巧よりも俳優の持てる魅力をじっくり掬い上げることに重きをおいたものが多い。その流れをくんだ『赤い玉、』も、主演の映画監督を演ずる奥田瑛二の持ち味を凝視するかのごとき作品である。
最近は安藤サクラの女優賞受賞のパーティで奥田氏本人をそばでお見かけして、その時はもはや愛娘を一流の監督と女優として送り出したプロデューサーという見え方しかしなかったし、ご本人もゼロ年代は鬼才の映画監督としての顔のほうが強烈だったのだが、このたびの『赤い玉、』で久々に俳優・奥田瑛二を堪能して、ああ、こういう存在は凄く映画的だし、またこんな役柄を自然に演じきれる俳優も希少になってしまったなあとさまざまな意味での溜息をもらした。
かつて駆け出し時代にバンキッドペガサス(特撮ドラマ『円盤戦争バンキッド」のヒーローをあなたは知っているか)を一所懸命やっていた青年が、藤田敏八監督『もっとしなやかに もっとしたたかに』('79)をいそいそと封切初日に観に行ったらまさかの主役を演っていて驚き、続いて同年の東陽一監督『もう頬づえはつかない』の好演にも心躍った。翌年の山根成之監督『五番町夕霧楼』では松坂慶子の相手役にも抜擢されたが、その時、奥田瑛二はもっとアクチュアルなはぐれ者のほうが似合っているなあと感じた。はたせるかな、80年代にさまざまなドラマに出演しながら、奥田の人気を確固たるものにしていったのは、85年の飯島敏宏プロデューサーのヒットドラマ『金曜日の妻たちへ3 恋におちて』の時のような、同時代的な飄々とした青年像のほうであった。
ドラマで人気者となった奥田は『海と毒薬』『千利休 本覺坊遺文』『式部物語』『ひかりごけ』『深い河』と一連の熊井啓監督作品で演技派としても認められ、一方では神代辰巳監督晩年の傑作『棒の哀しみ』や望月六郎監督『極道記者』シリーズでのアクの強い強烈なアウトロー役で好評を得て俳優として不動の位置を得るわけだが、どうしても私が奥田に期待してしまうのは、ずるずると日々に流され、いきがっても間抜けな人生の展開に呑まれてしまう、妙に誇り高いが放蕩的で口ほどにもないようなダメ人間の役柄である。アルゴ・プロジェクトの一本であまり語られずに終わった榎戸耕史監督『ありふれた藍に関する調査』の流され探偵など、今思い出してもけっこう好きだ。
かつては日本文学も日本映画もこういうダメ男の生態から人間臭さ、えもいわれぬ人の魅力をほじくり出して傑作を生んできたわけだが、こと邦画の中途半端なブロックバスター化がスクリーンからこんな私小説的な湿り気を排除して久しい。しかし最近思うのは、デジタル化によって貧しく若い新世代がほいほいとインディーズ映画を撮るようになったものの、大きな題材はバジェット的に困難なのでお手元のミクロコスモスを描くほかなく、スクリーンは時ならぬ私小説の時代の再来に見まわれている、ということだ。それは別に歓迎なのだが、いかんせんそこに描かれる人間像がただシャビイでお茶漬けサラサラな感じなのである。もう若手とはいい難くなってきた、旧世代の香りを知る冨永昌敬監督の『ローリング』などは例外的にダメ映画のコクを感じさせてくれたが。
だから、このたび奥田瑛二が高橋伴明監督の低予算インディーズ映画でダメ男の映画監督に扮するらしいと聞いた時、まっさきに期待したのは、若いインディーズ世代に、熟年の人生のチーズ臭が漂うがごとき(!)コクのある私小説的世界のお手本を示してほしい、ということだった。『赤い玉、』で奥田が演ずるのは、旬を過ぎてなかなか仕事に恵まれず、映画学校で今時の若者たちに映画づくりを伝承すべく教鞭をとっている監督という役である。生徒たちの会話で、この先生は映画監督として未だ評価高いのだろうかといった問いに「こんなところで先生をやっている時点で違うでしょ」というような答えが返ってくるところがあったが、これはさすがに大学で映画を教える高橋伴明監督の韜晦であろうかと思いつつ、しかし映画の企画が実らず映画学校の先生をやってしのいでいる多くの監督たちにはちょっとドキッとする台詞だろう。
実際この役は、くだんのような人生のコクや遊びの申し送りを期待する私には、痛快なくらい思惑通りの作品だった。奥田瑛二の監督は、監督志望、演技志望の若者たちに事あるごことに失望し、焚きつけたり絡んだりする。厳密にいえば、同じ年齢でも男子は幼稚で女子はいくぶんマセてしたたかなので、主な矛先は監督志望の余裕も度胸もない男の子だったりする(高橋伴明監督はこのあたりの細かいニュアンスをさらりと巧く描いている)。まあ若い映画学徒たちにはウザい存在なのだが、面白いのは子どもたちがこんな鬱陶しいオヤジに、尊敬というよりはもはや異物としての興味をかきたてられ、何かを吸収しようとしていることだ。
奥田瑛二はことさらに力まず、あたかも地で行く感じでこの役を演じているが、全篇にわたって常に酒を呑んでいるのがまたいい。ウォーキングしてはビールを、愛人を清書係にして脚本を執筆している時は焼酎を、割烹で若い生徒たちと飲みながら教えを授ける時は日本酒を、とにかく日がなひねもす酒を手放さず、飲みっぷりもいい。監督志望の男の子が女優志望の女の子と小さな恋愛のいざこざで悩んでいたら、そんな悩みはあほらしいと説き、彼が女の子のようなカクテルを飲んでいたら揶揄して男らしい酒の飲み方を教える。鬱陶しいオヤジだが、男子も女子もどこか惹かれ、男子は助監督にしてほしいと言い、女子は半ば冗談だが愛人になってもいいよと言う。だが、奥田瑛二の熟年監督は、かつてならこういう申し出にちゃっかり乗っかって好きにしたかもしれないが、こんな子どもみたいな世代の若者たちを振り回して不幸にしてはならないからか、きっぱり一線を引く。奥田の風貌がかつてはそんなタイプではないエゴイスティックな作家的不良性の持ち主だったのだろうなあと思わせるので、この意外なる「分別」には奥田扮する監督の成熟・・・というより「老い」「枯れ」の季節を感じさせる。このへんの描写の含みがまた巧い。
さてこの今どき流行らなくなった私小説的な監督は、性愛を軸にしたオリジナル企画を考えていて、それが目下のところ生きる原動力になっている。彼はたまさか街で発見した女子高生の少女の魅力に憑かれて、ストーカーまがいの取材をして同棲する愛人に物語を語って聞かせる。この生身の愛人とあくまで虚構内で成長してゆく少女の関係がまた面白いのだが、監督のよき理解者でもある愛人はこの終生映画という虚構の夢を追っていそうなオヤジのやんちゃさと危うさをもろともに感じ取っているから、とある行動に出る。奥田瑛二は男の性的な意味での最後のサインで赤い玉が出るという俗説を語るが、オヤジゆえにもう媚びてまで仕事をとる気もなく、泰然ととはいかないがならぬものは仕方なしという諦めにも慣れてきた・・・いわば人生の「赤い玉」が出かかっている男のなんともいえぬペーソスが漂い、悪くない。
そしてこんなオヤジの人生のダメな締めくくりが、まさかの『もっとしなやかに もっとしたたかに』の相似形で描かれたのはちょっと嬉しかった。あの出世作では、奥田瑛二をめぐる結末の間抜けさに(70年代はああいうズッコケはつきものだったとはいえ)当時思わずぷっとふき出して、そこに藤田敏八一流の意地悪さを見たけれども、今回それを再演させたことにはむしろ高橋伴明監督の愛情を感ずるばかりだ。これは奥田瑛二はやっぱりこういう決着でなければならないという見送り方である。
今ふうの風俗や小道具をもってきた部分や奥田が少女を妄想する場面の超現実的な粉飾はちょっとオヤジ臭いのでもっと普通にやってほしかったが、それは僅瑕に過ぎず全体としてはこれもまた最近のシネコンからは敬遠されそうな放蕩オヤジの性的瘋癲日記で、オトナな面白さと哀愁が愉しめた。