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「私生活の自由の不平等な侵害」をめぐって――レイシャルプロファイリング裁判の「歴史的」意義

明戸隆浩社会学者
3人の原告がレイシャルプロファイリングについての提訴を行った東京地裁判所

日本における「レイシャルプロファイリング」の浸透

1月29日、外国にルーツをもつ3人の男性が、警察から人種差別的な職務質問を受けたとして、国および東京都・愛知県に損害賠償などを求めて東京地裁に提訴した。この提訴についてはすでに多くの報道がなされているので、ここでは今回の提訴そのものについて詳しく述べることはしない。むしろこの記事で考えたいのは、日本で初めて正面からレイシャルプロファイリングについて争われることになるこの裁判が中長期的に担うことになるだろう、やや大げさに言えば「歴史的」な意義についてである。

「レイシャルプロファイリング」という言葉が日本で一般的に使われるようになったのは、2021年のことである。具体的にはこの年の1月、東京駅でドレッドヘアなどの見かけを理由に警察官から職務質問を受けたミックスルーツの男性がその状況を動画撮影し、その動画がTwitter(現X)を通して広く拡散されたことがきっかけだった。

その後、アメリカ大使館によるTwitter上での警告およびその直後に行われた警察庁による全国都道府県警への通知(2021年12月)、筆者自身も調査協力という形でかかわった東京弁護士会の調査(2022年1~2月、報告書の提出は同年9月)、警察庁による内部調査の結果公表(2022年11月)、とニュースとして注目を集める出来事が続き、その中で「レイシャルプロファイリング」という言葉も少しずつ浸透しつつある(こうした経緯については筆者も寄稿した宮下萌編『レイシャル・プロファイリング――警察による人種差別を問う』(2023年、大月書店)の序論で詳しくまとめている)。

裁判を通した新しい言葉の定着

今回の裁判はこうした経緯をふまえてなされたものだが、同時にこの裁判は、その過程を通じて「レイシャルプロファイリング」という言葉を日本社会にさらに定着させていくという位置づけにもある。実際歴史的に見ても、新しい社会問題を表す言葉が裁判を通じて社会に共有されていった事例は多い。

たとえばレイシャルプロファイリングという言葉それ自体で考えても、この言葉が1990年代アメリカで普及した直接のきっかけとなったのは、当時行われた2つの裁判だった。このうち1つはニュージャージー州対ソト裁判、これは車両停止によって薬物所持が判明して罪に問われたアフリカ系アメリカ人らが警察のやり方の人種差別性を認めさせた刑事事件で、もう1つはウィルキンス対メリーランド州警察裁判、こちらはアメリカを代表する人権団体であるアメリカ自由人権協会(ACLU)が行った集団訴訟である。アメリカでは2000年以降レイシャルプロファイリングという言葉が警察などの法執行機関による人種差別的取り扱いを意味する言葉として定着しているが、その過程ではこうした裁判が大きな役割を果たした。

また日本の文脈で考えても、たとえば今やほぼ知らない人がいない「セクシュアルハラスメント(セクハラ)」という言葉、これもまた裁判を通して広く社会に定着した言葉である。この言葉は1989年に新語・流行語大賞を受賞してから広く知られるようになったが、そのきっかけになったのは、性的な悪評を立てられて事実上退職させられたことは性差別だとして、福岡の出版社の元社員が会社と元上司を訴えた事件だった(福岡出版社事件、1992年に元社員側が全面勝訴)。これは2024年現在の視点から見れば「セクハラ」以外の何ものでもない事件だが、裁判が始まった時点ではそうした言葉はほとんど知られておらず、むしろこの裁判を通してセクハラという言葉が定着していったわけである。

つまり今回の裁判はたんなる一つの裁判ではなく、今後日本で「レイシャルプロファイリング」という言葉を象徴する事例として位置づけられるようになる可能性が高い。ここで見たアメリカや日本での先例から考えられることは、端的に言えばそういうことだ。

憲法第14条(平等権)と憲法第13条(私生活の自由を侵害されない権利)

とはいえ、裁判を通じて社会に共有されるのはその言葉自体だけでなく、それが意味する内容についても当然そうである。ここで注目されるのは、今回出された訴状において(訴状は本裁判の代理人の多くが所属する公共訴訟プラットフォーム「Call4」のウェブサイトで広く公開されている)、レイシャルプロファイリングが違憲・違法であることの根拠として、憲法第14条と並んで第13条が参照されていることだ。

このうち憲法第14条はいわゆる「法の下の平等」を定めるものであり、訴訟でも参照されている人種差別撤廃条約第2条および自由権規約(市民的及び政治的権利に関する国際規約)第26条とともに、レイシャルプロファイリングが不当である根拠として真っ先に想起されるものである。実際、警察が人種などの見た目を理由に職務質問を行うことは、憲法第14条でいう法の下の平等に反し、また人種差別撤廃条約第2条でいう人種差別、および自由権規約第26条でいう差別にあたるものであり、訴状の表現を借りれば「これは端的に、差別である」。

一方憲法第13条は幸福追求権について包括的に定めるものだが、その具体的な帰結の1つとして私生活をみだりに侵害されない権利が導かれるとされ、それをふまえて訴状では「憲法13条は私生活の自由の1つとしてみだりに職務質問を受けない自由を保障していると解するべき」だとする。この間日本でレイシャルプロファイリングに言及される場合にはそれが平等権を侵害する人種差別であることが強調されることが多いが、その一方でそれが私生活の自由を侵害するものであるという議論は、これまであまりなかったように思う。

もっともこれには一定の背景があり、先ほどレイシャルプロファイリングという言葉の「発祥の地」として参照したアメリカの文脈を見ても、当初合衆国憲法第4条(不合理な捜索・押収・抑留の禁止)をめぐって展開されていたプロファイリングの問題が、90年代後半以降(具体的には1996年のWhren対合衆国裁判の最高裁判決以降)、合衆国憲法第14条が定める平等権の侵害を争点とするものへとシフトしていったという経緯がある。そのため2000年代以降のアメリカでは、レイシャルプロファイリングと言えば平等権の侵害が想起されることが多く、そしてこうした傾向はこの言葉が2020年代に日本に浸透した際にも引き継がれることになった。

しかし当然ながら、こうしたことはレイシャルプロファイリングの不当性が平等権「だけ」を根拠として成立すると考えるべき理由にはならない。実際そこで「不平等に」あるいは「差別的に」侵害されている権利が何であるのかを考える上で、私生活の自由の侵害という論点は非常に重要な意味をもつ。そこでは憲法第13条の問題は平等権の問題と対立するものではなく、相互に補完しあうものとして位置づけられることになる。

レイシャルプロファイリングにおける「繰り返し」の問題

その上であらためて、今回の訴状に戻ろう。憲法第13条を参照した記述は、次のようなものである。

憲法13条は私生活の自由の1つとしてみだりに職務質問を受けない自由を保障していると解するべきであり、たとえ個々の職務質問が強制力を行使せず、任意の範囲に留まるとしても、組織として、特定の対象者を狙い撃ちにして要件を欠く職務質問を何度も繰り返すことは、対象者の私的領域に対する過度な侵入となり、みだりに職務質問を受けない自由を侵害する。

ここで重要なのは「何度も繰り返す」という部分であり、これに続く段落でも「外国籍または外国にルーツを持つ人々を対象として繰り返し、組織的に職務質問をする」ことが問題とされている。

実際、今回の訴訟の原告となった3人は、いずれも繰り返しレイシャルプロファイリングを受けた経験をもつ。訴状によれば、ゼインさんはこれまでに15回程度、モーリスさんは10年間に16~7回、マシューさんに至っては「少なくとも70回、おそらく100回近く」も職務質問を受け、ひどいときには家の外に出ること自体が怖くなったという。これだけの回数が積み重なれば、「ちょっと警察の質問に答えるくらいで何を大げさな」といった、ネットなどでよくある非難が的外れであることは明らかだろう。

そしてここで重要なことは、こうした加害の「繰り返し」あるいは「積み重ね」の問題については、前半でも少し触れたハラスメントにかかわる議論において、すでに蓄積があるということである。具体的には「環境型」ハラスメントと呼ばれる類型にかかわる議論だが、これは1つ1つはそこまで大きな加害ではない場合であっても、それが繰り返されたり積み重なったりすることで職場環境を悪化させて就労の継続を難しくする場合に、ハラスメントと認定するという発想だ。こうしたケースでは加害者側は個々の加害について「大したことではない」と主張することが多いが、そこで重視されるのはそれらの積み重ねが被害者の就労環境をどれだけ悪化させたか、ということである。

記者会見での発言によれば、マシューさんは職務質問を受けると、まず最初に「これはハラスメントですよ」と警官に伝えるのだという。一般的にはハラスメントという言葉は職場など限られた場や人間関係のもとで使われることが多く、その意味でこれを場違いなものだととらえる人もいるかもしれない。しかしここで述べた環境型ハラスメントの考え方をふまえるなら、マシューさんが置かれた状況はまさに環境型ハラスメントの被害者のそれである。一つ一つは小さな加害でも、それが何度も何度も繰り返された結果、マシューさんはその「環境=家の外」に身を置くことができなくなった。これは厳密な意味でのハラスメントではないかもしれないが、「家の外」という広大な環境すべてにその影響が及んだという意味では、一連の警察官の行為の罪は職場でのハラスメントより重いとすら言えるかもしれない。

「私生活の自由の不平等な侵害」としてのレイシャルプロファイリング

以上のように、この裁判においてレイシャルプロファイリングは憲法第14条の法の下の平等という論点だけでなく、第13条にかかわる私生活の自由の侵害という点についても、とくにその「繰り返し」という特性との関連で問われることになる。レイシャルプロファイリングが差別的であり平等権を侵害するから違憲ないし違法であるという主張はもちろん重要だが、そこに第13条の論点が加わることは、原告3人の被害の事実をより一層明確にすることになると思われる。

そしてここで重要なのは、この2つの論点のあいだに、不平等あるいは差別的に「特定の対象を狙い撃ち」にするからこそ、標的とされた当事者にとっては「繰り返し」同様の職務質問を受けることになる、という関係があることだ。つまりこれらは表裏の関係にあるわけだが、そこではレイシャルプロファイリングがもつ差別性ないし不平等性は、「人種によって職質をされる人とそうでない人がいる」という形ではなく、「人種によって何度も繰り返し職質をされる人とそうでない人がいる」という形で現れる。そこで重要なのはたんに職質経験があるかどうかではなくその「数」であり、そこにこそ「職務質問による私生活の自由の侵害の不平等性」がもっとも色濃く反映されるのだ。

前半で述べたように、今回の裁判はたんなる一つの裁判ではなく、今後日本で「レイシャルプロファイリング」という言葉を象徴する事例として位置づけられるようになる可能性が高い。そうした裁判の中で、「私生活の自由の不平等な侵害」というレイシャルプロファイリングの核心とも言える問題が明示的に問われることは、非常に重要だと思われる。この裁判を通してこうした論点がこの社会の中で共有されていくなら、それはこの裁判の社会的な成果として、非常に大きなものになるだろう。

社会学者

1976年名古屋生まれ。大阪公立大学大学院経済学研究科准教授。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。専門は社会学、社会思想、多文化社会論。近年の関心はヘイトスピーチやレイシズム、とりわけネットやAIとの関連。著書に『テクノロジーと差別』(共著、解放出版、2022年)、『レイシャル・プロファイリング』(共著、大月書店、2023年)など。訳書にエリック・ブライシュ『ヘイトスピーチ』(共訳、明石書店、2014年)、ダニエル・キーツ・シトロン『サイバーハラスメント』(監訳、明石書店、2020年)など。

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