アウシュヴィッツ生還者が語る「忘れることのできない過去」
ナチス・ドイツが主にユダヤ人を大量虐殺したアウシュヴィッツ強制収容所が旧ソ連軍に開放されてから今年で70周年を迎えた。その解放記念日の1月27日を迎え、死と隣り合わせの日々を過ごしたアウシュビッツ生還者が独メディアの取材で凄まじい過去を告白した。
まず、シュピーゲル誌の特集「アウシュヴィッツ・最後の証人達・生還者19人のレポート」を、吸い込まれるように読んだ。この記事には、現実におこなわれたこととは思えない、狂気の世界を淡々と語る生還者たちのショッキングな証言が報告されている。その一部を紹介しよう。
全裸の収容者を眺めながら品定めしたナチス・ドイツ
オーストリア・ウィーン生まれのヘルガ・キンスキーさん(84歳)は、12才の時、父とともにテレージエンシュタット(チェコ北部の都市)へ移送された。
(注・テレ-ジエンシュタットは、第二次大戦中ナチス・ドイツ保護領で、ユダヤ人の強制居住地だった。収容者の通過収容所、そして一般公開用のモデル収容所として利用されていたという)
「恐怖と先の見えない不安に怯えた毎日を過ごしていました。でも、私は信頼できる友達や知人が回りにいたことを知っていたので、いつかまたきっと皆に会えるものと思っていました」
ヘルガさんは、ここにある女子収容所で1年半ほど過ごした。
「そのうち、私にもアウシュヴィッツ移送の日がやって来ました。父に別れを告げましたが、娘を見送った父の胸のうちは、想像に絶します」
1944年10月23日の早朝、1両の家畜用貨物車に50人ほど押し込められた。「すし詰め状態で16~17時間ほど乗っていたと思います。アウシュヴィッツに到着したのは、その日の夜でした。周辺の不気味な静寂さは、今でも鮮明に覚えています」
収容者の到着に気がついたSS(ナチス親衛隊)は、一斉に投光照明を灯した。異様な静けさだった周辺には、またたくまに騒音が響き渡り、車輌のドアが開いた。
「持参したわずかな私物を持ち出すこともできないまま、とにかく早く、早くと急かされ降車しました」
その後、SSは収容者を見定め、「お前は右へいけ、お前は左へ」と、二つのグループに選別した。この時のSS将校がヨゼフ・メンゲレだったかどうかはわからないとヘルガさんは振り返る。
(注・ヨゼフ・メンゲレは第二次世界大戦中、アウシュヴィッツで勤務した医師。収容所では、人体実験を行ったことでも知られる。アウシュヴィッツに移送されたユダヤ人の選別も担当していたという。)
幸いにも生き残りグループに振り分けられたヘルガさんは、数日後に行われた2回目の選別で、またしても恐怖に慄いた。
「全裸になって、見世物のようにSSの前を歩きました。ここでも二つのグループに分けられたのです。それが、私の体験した最後の選別でした」
ヘルガさんと同時期にアウシュヴィッツへ移送された1,715人収容者のうち、211人が生き残った。ヘルガさんが生還できたのは、「本当に運がよかっただけ」という。
ここ数年、ヘルガさんは若者たちに自分の体験を話す機会を積極的に設け、二度と起こしてはならない悲劇を語り続けている。ありのままの過去を淡々と話しているが、当時の体験が鮮明に蘇り、言葉に詰まることもあるそうだ。
「私たちを動物のように扱い、大量殺人したナチス・ドイツは、どう考えても理解できない。人は皆、同等なのですから」
体重34キロ!鏡に映る自分の姿に驚愕した
イェフダ・バコン氏(85歳)は、チェコスロバキア出身。子供の時からイラストを描くのが好きで、現在はエルサレム在の画家として活動中だ。
9歳の時、イェフダさんの住居地区にナチス・ドイツ軍がやってきた。軍の手はイェフダさんが通っていた学校にまで及び、校内にヒトラーユーゲント(ナチ党青少年団)が待ちうせていて、友人が殴られていたという。
「ブロンドの髪が幸いしたのか、私はユダヤ人とは見なされなかったようです。殴られることもありませんでした」
ナチス・ドイツ軍は、個人所有の金目のものをすべて没収した。銀や毛皮、そして杖も。後にイェフダさんは、アウシュヴィッツへ収容されて、杖を集めていた理由がやっとわかったと言う。収容者を叩きつけるためだった。
最初に移送されたのはテレージエンシュタット収容所だった。イェフダさんは、ここでチェコスロバキア出身者の家族収容所で過ごした。そこは、国際赤十字などを対象とした、一般公開用のモデル収容所だったため、設備も他の収容所に比べ恵まれていた。
ある冬のこと、SSリーダーは、雪で身体を洗うようにと収容者に伝えた。小汚い姿をした者や、病気持ちは、即刻火葬場行きだったため、身だしなみには気を使い、少しでも長く生きようと思った。
そんななか、イェフダさんにチャンスが訪れた。どんな理由かはわからなかったが、SS が青年グループを探していたのだ。この先、父と一緒に収容所生活を続けても、いつの日か殺害されてしまうのは間違いないと考え、その青年グループに加わリ、アウシュヴィッツ行きを決めた。
父と別れの時が来た。「パレスチナ(ユダヤ人が安心して住めるといわれた地域)で会おう」が父の最期の言葉だった。
その後、イェフダさんはアウシュヴィッツで労働者として従事。馬車を引いたり、木材作業に携わったりと、重労働に明け暮れる毎日を過ごした。
厳酷の冬は、若者達の身にこたえた。暖をとる為に、火葬場へ行くことが許されていた。そこだけはいつも暖かかったからだ。多くの若者は、恐怖で足がすくみ火葬場行きを拒否したが、イェフダさんは数人の仲間と火葬場へ向かった。
「身体を温めるだけでなく、一体、アウシュヴィッツで何が起こっているのか見たかったから。自分の目で見た光景は、スケッチとして残しました」と、イェフダさんは回顧する。
シャワー室と呼ばれていた部屋は、確かにシャワーらしきものがあった。だが、シャワー水栓には穴がなく、実際には、そこからはガスが噴出することを知った。
時には食事供給もあった。テレージエンシュタットから来た仲間とは、アウシュヴィッツでも深い友情で繋がっていた。だが、空腹に耐え切れず、女性から食べ物を盗む仲間もいた。盗みを行った者とは一切口をきかないことで、罰を与えた。
「死の行進」と呼ばれた強制移動では、衰弱して歩くこともままならない仲間を左右から支え、引っ張るようにして一緒に歩いた。「行進中、SSは手当たり次第射殺したが、私たち青少年を撃つことはなかった」と、イェフダさん。
ソビエト軍に解放されて、充分すぎるほどの食事が供された。しかし、餓鬼状態同然だった収容者たちは、そのご馳走に困惑したという。空腹になれてしまい、胃が料理を受け付けなかったり、消化機能低下で思う存分食べることができなかったからだ。
解放後、イェフダさんは収容所病院の鏡に移る自分の姿に驚愕し、気分が悪くなった。体重を計ってみると、34キロだった。その後、イェフダさんはチェコ・プラハへ戻り、最終的にはイスラエルを居住の地とした。
イェフダさんの思いはただひとつ。自分が体験したことを次世代に語り継いでいくことだ。残酷な過去を知ることで、若者たちが良識ある人間になって欲しいと願っている。
「時には悲劇話はもう聞きたくないという若者もいて本当に残念です。今できることは、絵を描き、過去の体験を表現していくこと」と語るイェフダさんだ。
4回の離婚を経て見えた親子の関係
アウシュヴィッツ解放70周年の1月27日前後には、ドイツメデイアで多くの特集が報道された。なかでも筆者の心に残るインタビューは、フーゴ・エゴン・バルダーさん64歳(司会者)の告白だ。タイトルのアウシュヴィッツ生還者から逸れてしまうが、是非紹介したい。
ZDF(独国営放送)で放映された特番で、フーゴさんは実母ゲルダさんのテレージエンシュタット収容所での体験とフーゴさんの人生を重ねて告白した。
ゲルダさんは、子ども達3人の前では収容所での体験をほとんど話さなかった。そして感情も一切表に出さなかった人だった。ゲルダさんは、いつも子供たちにこう語っていた。
「テレージエンシュタットへ出向いて、母の過去を探るようなことは絶対してほしくない」
母の死後、フーゴさんは仕事を兼ねてテレージエンシュタットに出向いた。そして、「なぜ、母が頑なまでに過去を話したくなかったのか、はじめて理解できた」という。
子供には到底聞かせることのできない惨事を振り返り、余計な心配をさせたくなかったという親心から口を閉ざしていた母の過去が徐々に浮き彫りとなってきた。
フーゴさんは、母が幼稚園教員だったことをテレージエンシュタットではじめて知った。
それが、彼女の命を救ったのかもしれないと言う。「有利だったとか、特典になったとかという表現は使いたくないが、専門職を有していたことが彼女を生還させたのでは・・・と思う」
ゲルダさんは、テレージエンシュタットで人生最悪の経験をした。それは、死体を埋める穴を掘る作業を他の収容者と一緒に行った時のことだ。作業中、恐怖や餓えで弱みを見せる仲間もいた。そんな様を見せれば、すぐSS に射殺されるのを目のあたりにしたゲルダさんは、2日間休むことなく作業をやり遂げた。
(注・テレージエンシュタットにはガス室はなく、ここで息途絶えた収容者は空腹や衰弱、チフスが原因でなくなった。それらの犠牲者を埋めるために穴を掘る必要があった)
普段は一切過去を語らない母だったが、この作業をしたことはそれとなく洩らしていたようだ。母は子供たちと距離を置いて、どちらかといえば冷たい関係を保ったことは、「テレージエンシュタットでのこの体験が理由だったのでは」と、フーゴさんは考えるようになった。
「僕は4回離婚しているんですよ。夫婦生活が上手くいかなかったのは、母の影響を受けているかもしれないと思うようになりました。母の過去を探っていくうちに、自分は結婚に向いていないことにも気づきました」とフーゴさんは明かす。
「僕は、自分の思っていることや感情は表に出さず、すべて自分の心に封印してしまい、会話を拒否するタイプなんです。これは母を見て育った自分の身についてしまった習性なのかもしれない。だから結婚相手とトラブルがあった時も、会話がなく、お互いの心が離れていったのだと、これまで自分にもわからなかった答えに行き着いたのです」
「母は子供たちに良かれと思い、口を閉ざしていたけれど、もっとオープンに家族で何でも話あう土壌があったなら、僕自身ももっと素直に自分をさらけ出し、妻と話しあい、離婚を防ぐことができたかもしれない」
ナチス・ドイツを体験したことのない世代にも、親の受けた辛い過去の爪痕が残っているようだ。
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1940年から45年まで、アウシュヴッツ収容所では、およそ110万人が殺害され、そのうち100万人がユダヤ人だったという。生還者たちは、今も「忘れることのできない過去」を胸に秘めて生活している。
ドイツの若者(30歳以下)の5人に1人がアウシュヴッツを知らないという調査結果が報告された。悲劇の史実を直視して、ナチス・ドイツ軍が招いた負の過去を語り継ぐ重要性を訴えていかねばならない。