奈良「興福寺」で初の棋聖戦七番勝負対局――囲碁と古都奈良の歴史
一力遼棋聖(26)=本因坊・天元に井山裕太王座(34)=碁聖が挑戦する第48期棋聖戦七番勝負(読売新聞社主催)は1月20、21日に奈良県奈良市「興福寺」で第2局が行われ、218手で白番の井山王座が中押し勝ちし対戦成績を1勝1敗とした。
囲碁界最高峰のタイトル戦である棋聖戦が奈良県で行われるのは今回が初めて。対局場となった興福寺は歴史的建造物の五重塔や阿修羅像など貴重な文化財が多数あることで世界遺産に登録されている。
本稿では囲碁と奈良を中心とした日本の歴史、また興福寺との関係について解説する。
<棋聖戦七番勝負日程とこれまでの勝敗>
第1局 1月11、12日 東京都文京区「ホテル椿山荘東京」
一力棋聖(白番)中押し勝ち
第2局 1月20、21日 奈良県奈良市「興福寺」
井山王座(白番)中押し勝ち
第3局 1月27、28日 栃木県日光市「千姫物語」
第4局 2月8、9日 宮城県仙台市「宮城県知事公館」
第5局 2月15、16日 千葉県勝浦市「三日月シーパークホテル勝浦」
第6局 2月29日、3月1日 神奈川県箱根町「ホテル花月園」
第7局 3月7、8日 山梨県甲府市「常磐ホテル」
囲碁は奈良時代以前日本に伝来
日本の伝統遊戯である囲碁は中国の歴史書「隋書倭国伝」に記録が残るように飛鳥時代には日本に伝来していたことが明らかになっている。
奈良時代に入っても公家や僧侶の間で囲碁は広く遊ばれ、上質の碁盤や碁石も現代に伝わっている。もっとも有名な盤は聖武天皇(701~756年)や光明皇后ゆかりの品が収められた正倉院に保管されている国宝の「木画紫檀棊局」(もくがしたんのききょく)だ。盤に印された星の数は現代の9つと違い17星。これは朝鮮半島様式とされ、当時国交のあった百済から贈られたものと考える研究がある。盤の側面には駱駝(らくだ)の絵柄も描かれていて、中国西域の文化も反映されていた。
「養老律令」にあった碁に関する法
興福寺は710(和銅3)年、平城京遷都に伴い建立された藤原氏ゆかりの法相宗大本山の寺院。その後、天皇や皇后、藤原氏によって堂塔が建築された。碁が寺院で遊ばれたという当時の日記などは見つかっていないが、囲碁と仏教寺院に関連する記述は古代の法律に残っている。
757(天平宝字元)年に施行された養老律令の中の「僧尼令九 作音楽条」で僧や尼僧が博戯(賭け事)を行うことは禁じられ罰則があったが「碁琴は制する限りにあらず」の一文があり、碁は琴とともに許容されていた。おそらく興福寺では頻繁に碁が打たれ貴人の立ち会う中、対局が行われたこともあっただろう。
平安時代に入るとさらに碁は流行し「源氏物語」や「枕草子」といった文学作品にも登場する。また遣唐使の一行に碁の上手「碁師」を帯同させるなど、国際交流にも重要な役割を果たした。
室町時代に著された、興福寺塔頭多聞院の日次記「多聞院日記」には多くの「碁会」が催された記録が残り、1590(天正18)年5月の項に囲碁の上手な寺の神人(神職)が徳川家康の寵愛を受けていたとの記述がある。
家康は天下を取ってまもなく囲碁の達人たちに俸禄を支給し、これが江戸時代の囲碁家元制の礎となった。
奈良時代から1300年の時を経ても囲碁の魅力は色あせていない。