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【河内長野市】下里町の青賀原神社は、空海の九頭龍調伏伝説や明治の強行祭祀などエピソードが盛りだくさん

奥河内から情報発信奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

市の西北にある下里町は、北側を堺市南区と接しており、少し西に行けば和泉市があります。ここには下里総合運動場がありますね。その運動場のすぐ横に青賀原神社(あおがはらじんじゃ)があります。

ところでこの神社、調べれば調べるほど不思議な伝承やエピソードがいろいろあることがわかりました。

天野山金剛寺の隣の山の中にある丹生高野明神社
天野山金剛寺の隣の山の中にある丹生高野明神社

社伝によると、1180年に創建された神社とあります。天野山金剛寺の隣の山の中にある鎮守、丹生高野明神社(にうこうやみょうじんしゃ)の御霊を勧請(霊を分けてもらう)して祀られたと考えられています。当時の下里村は金剛寺領でした。

ところがその前から、下里の地には神様が祀られていたという情報があります。それは784年の桓武天皇の時代のこと。紀州かつらぎ天野の里より御霊が安置されたというのです。

紀州かつらぎ天野の里とは和歌山県で、紀ノ川の南側、高野山や九度山の西に位置していました。そこには丹生都比売神社(にふつひめじんじゃ)(外部リンク)があります。

主祭神である4柱の神様のうち、神社の第一殿に祀られているのが丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)です。丹生都比売神社のHPによるとは皇祖神・天照大御神(あまてらすおおみかみ)の妹、神稚日女尊(わかひるめのみこと)なんだとか。

また天照大御神の兄弟には月の神様、月読之尊(つくよみのみこと)がいますが、これが青賀原神社に祀られている丹生大明神と同一とされています。

実際に神稚日女尊と月読之尊が同一という説もあるので、次のような関係も成り立ちますね。

丹生大明神(丹生都比売大神)= 神稚日女尊 =月読之尊

ただ月読之尊は一般的に男性神(天照御大神の弟神)とされているので、妹神の神稚日女尊や丹生大明神とは別のような気がしますが、古事記や日本書紀に性別の事が書かれていません。実際のところはどうなのでしょう?

また青賀原神社の丹生明神は弟神と伝わっているとか。

余談ですが、丹生都比売神社は空海を高野山に導いたという伝承があります。これは第二殿の高野御子大神(たかのみこのおおかみ)で、元々高野山は丹生都比売神社の領地でしたが、それを空海が来た時に譲ったと言うもの。

つまり丹生都比売神社は空海との関係が深い神社なわけです。それは丹生都比売神社から神様を分霊してもらった青賀原神社でも同様。青賀原神社には空海にまつわる九頭龍調伏伝説があります。

伝承によれば、空海が高野山を開く少し前、槇尾山に向かうために下里を歩いていたこと。黒雲が舞い下りてきて天地が鳴り響くと、9つの頭を持つという大蛇(九頭龍)が現れます。大蛇は火を放ちながら空海に襲い掛かりました。

ここで空海が念仏を唱えます。すると、黒雲の中から黒と白の犬とともに狩人が現れると、その大蛇を退治します。その狩人とは「一宇金輪(仏頂尊)」と名乗りました。空海は大蛇を退治した狩人の正体が高野明神(狩場明神)だとわかります。

九頭神山という塚がある思われる丘
九頭神山という塚がある思われる丘

退治された大蛇は空海により埋葬され塚を作ったとか。その名前を九頭神山とし、空海が「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えたそうです。

ちなみに九頭神山というのはどこにあるのか調べると、どうやら青賀原神社の南側200メートルの地点にあることがわかりました。天野川を渡ったところにある、画像の小高い丘の上に祠があるようです。

さて青賀原神社の本殿の前に来ました。本殿は江戸の初期に造営されたそうです。また青賀原神社の祭神は次の通りです。

  1. 丹生大明神
  2. 高野大明神
  3. 久爾津神
  4. 稲荷大明神

このうち1と2は、丹生都比売神社で第一殿と第二殿で祀られている神様と同じ。4の稲荷大明神は有名ですね。問題は3の久爾津神(くにつかみ)です。この神様の正体を探ろうにも、久爾津神で調べると青賀原神社しか出て来ません。

ここで面白い情報を見つけました。久爾津神とは、9つの頭を持つ大蛇のことではという説です。

それによると「九頭=国栖(くず)」のことで、それは古代の先住民を意味するのだとか。おそらく九つ頭をもつ大蛇は、元々信仰された下里の土着の神様ではというもの。よく見たら久爾津神の読み方「くにつかみ」も国つ神に通じるところがあります。

もしそうであれば元々鎮座していた神様も祀られていることになりますね。

さらに面白いエピソードがありました。それは時代が下って明治に入ってからのこと。

当時は廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)という政府の政策により、仏教の寺院を排除していますが、それとは別に、村にある小さな神社の御霊を、ひとつの大きな神社に合祀する動きがありました。

富田林板持にある板茂神社もいったん合祀されたのち、戦後に御霊を戻してもらった
富田林板持にある板茂神社もいったん合祀されたのち、戦後に御霊を戻してもらった

一例を紹介すると、富田林の板持にある板茂神社は1907(明治40)年に千早赤阪村の建水分神社(たけみくまりじんじゃ)に合祀されてしまい、いったん廃社となりました。

しかし、戦後1950(昭和25)年に、建水分神社から御霊を分霊してもらい、再び祀ったという歴史があります。

小山田にある住吉神社
小山田にある住吉神社

同様の政策で、青賀原神社の御霊も1904年に小山田にある住吉神社に合祀されます。ところが、下里の人たちは、合祀後も社殿を残して、青賀原神社の神々を祀り、祭祀を続けたのだとか。政府の意向を無視した強行祭祀です。

政府の命令で神様がよそに移されましたが、地元の人たちは納得できなかったのでしょう。その後、住吉神社から神様の御霊が戻されたのかどうかはわかりませんが、境内に立っている幟が真新しいことからも今も地元の人からの篤い信仰が伺えます。

ちなみに神社の境内は青賀原神社ちびっこ広場となっていて、滑り台やブランコが置いてありました。下里の子供たちは、物心ついた時から青賀原神社で遊んですくすくと育っていくのでしょうね。

青賀原神社
住所:大阪府河内長野市下里町933
アクセス:南海千代田駅からバス 緑ヶ丘北町バス停から徒歩25分

奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市の別名「奥河内」は、周囲を山に囲まれ3種類の日本遺産に登録されるほど、歴史文化的スポットがたくさんある地域です。それに加えて、都心である大阪市中心部に乗り換えなしで行ける複数の大手私鉄(南海・近鉄)と直結していることから、新興住宅団地が多数造成されており、地元にはおしゃれな名店や評判の良い店なども数多くあります。そして隣接する富田林市もまた、歴史文化が色濃く残る地域。また南河内地区の中核都市として、行政系施設が集まっています。これを機会に、奥河内(一部南河内含む)地域に住んでいる人たちのお役に立つ情報を提供していければと考えています。どうぞよろしくお願いします。

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