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【九州三国志】大友家の礎を支えた賢臣!吉岡長増の生涯とその時代

華盛頓Webライター
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吉岡長増は、大友氏の家臣として波乱に満ちた戦国時代を生き抜き、大友宗麟を支えた賢臣としてその名を刻む人物です。

彼の出自は、大友親秀の子・頼宗を祖とする吉岡氏に属するものの、その系譜は不明な点も多く、後世に再構築されたものが伝わるのみです。

長増は義鑑や義鎮(宗麟)といった歴代の大友氏当主に仕え、政治・軍事の両面で数々の功績を残しました

特に「豊州二老」として臼杵鑑速とともに大友家中で高い信頼を得た彼の姿は、大友家の盛衰を語る上で欠かせません。

長増が歴史の舞台に登場するのは、大友義鑑の代からです。

義鑑に仕え、加判衆として政務を司った彼は、少弐氏を支援して陶興房率いる大内軍と戦い、鏡城を落として敵の輸送路を遮断するなど初陣から大きな成果を挙げました

義鑑の死後、跡を継いだ義鎮(宗麟)のもとで長増は再び加判衆に任じられ、臼杵鑑速や吉弘鑑理とともに大友三老に数えられたのです。

彼は豊前・筑前・肥前の三ヶ国を担当し、日向国の土持氏も管轄するなど広範囲にわたる政務を担いました

弘治年間(1555~1558年)には小原鑑元の反乱鎮圧や秋月文種の討伐、また龍造寺隆信との和睦など、多忙を極める働きを見せたのです。

さらには永禄2年(1559年)には領地の境界争いを調停し、戦国大名同士の和解を成し遂げるなど、彼の政治的手腕は高く評価されています。

一方で彼自身も疲労を隠し切れなかったようで、吉弘鑑理宛の書状には「私の疲労を察してほしい」と記しているのです。

永禄12年(1569年)、毛利軍が筑前に侵攻し、大友氏は滅亡の危機に瀕します

毛利軍の猛攻に対し、大友宗歓(出家後の長増)は独自の策を講じました。

尼子再興軍の山中鹿之助に軍資金を送り、毛利領内で反乱を起こさせる一方、周防国では大内輝弘を上陸させ、毛利氏の背後を突く作戦を展開します

さらに村上水軍を調略し、毛利水軍の動きを封じました

この巧妙な策謀により毛利軍は本土へ撤退を余儀なくされ、多々良浜の戦いは大友氏の勝利に終わったのです。

この戦いの後も宗歓は大友氏の支配体制を磐石にするため、引き続き政治と外交に奔走しました。

高橋鑑種の謀反や秋月種実の挙兵にも果敢に対応し、宗麟から「吉岡宗歓に油断なく」と指示が下るほど信頼されていたのです。

宗歓の献策や戦略があったからこそ、大友氏は九州での覇権を維持できたといっても過言ではないでしょう。

元亀3年(1572年)頃に没したとされる宗歓の死は、大友家中に大きな喪失感をもたらしました

後に立花道雪は「吉岡宗歓と臼杵鑑速がいれば、大友家はここまで衰退しなかった」と嘆き、耳川の戦いの大敗を無念に思う言葉を残しています。

長増が支えた大友家の政治・軍事体制は彼の死後、徐々に崩れていくのです。

宗歓は晩年、度々引退を口にしながらも、家中の混乱を収めるためにその生涯を全うしました。

その姿勢は、乱世を生き抜いた忠臣として後世に語り継がれ、江戸時代の記録にも「宗歓のような重臣がいれば、大友家は安泰であったであろう」と評されています。

彼が築き上げた功績は、戦国時代の九州の歴史において燦然と輝き続けるのです。

Webライター

歴史能力検定2級の華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

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