【江戸時代】神さまになった日本一の“善”代官「鈴木様」とは?島原・天草の乱の裏にあった真実
時代劇が好きな方も、そうではない方も。少し前に国民的ドラマとして人気を誇った“水戸黄門”、そして以下の様なシーンをご存知の方は多いと思います。
「お代官様、こちらはお土産の山吹色のお菓子でございます。どうかこれにて、ひとつ」 「越後屋、お主も・・悪よのう」。
もはや1つのテンプレートとも言えるシーンであり、悪代官と言えばお馴染みの悪役として、いまや多くの日本国民に認知されている存在です。
しかし、この記事でご紹介するのはその真逆。“悪”どころか民衆のために命をかけ、そして尊敬されるあまり神社が建てられ、いま現在も祀られている代官がいるのです。
彼は歴史の教科書にこそ登場しませんが、江戸幕府を震撼させた島原・天草の乱に極めて深い関係をもった人物でした。
吹き荒れる暴政の嵐
ときは1637年。今でいう長崎県と熊本県にまたがって起きた島原・天草の乱は、江戸幕府がキリスト教を弾圧し、それに対して神の子とも呼ばれた天草四郎がリーダーとして立ち上がり、抵抗した戦いと記憶している方が多いと思います。
しかし、この反乱。たしかにキリスト教の弾圧は一因ですが、実はそれとは別の、極めて重大な背景も関係していました。
まず当時の島原は松倉勝家(まつくら・かついえ)という大名が治めていたのですが、この政治があまりに酷く、実際は4万石ほどのところ10万石と幕府に申告し、領民から過大な年貢を取り立てました。
また居城を豪勢にするため労働にも駆り出し、作物がとれない凶作の年も、容赦なく税を取り立てたといいます。
『お役人さま、お願いでございます。せめて猶予をいただけませぬか』『ならぬ。年貢の支払いは絶対である。納めるまでお前の妻を、あずらせてもらおう』
・・などと、まさに時代劇の悪役そのままの行いを、本当にやっていたことが記録に残っています。また天草を治める寺沢堅高(てらざわ・かたたか)という大名も、彼の父の代に実態の倍とも言われる石高が申告され、領民は重税にあえいでいました。
そして幕府からキリスト教を取り締まるべくお触れが届くと、両大名とも苛烈に弾圧しました。それに抵抗するキリシタンと暴政に苦しむ領民は団結、さらには職を失っていた浪人など、徳川家の治世に不満をもつ人々も加わり、最終的には3万人を超す大反乱となりました。
揺らぐ江戸幕府の威信
さて、この時代は江戸幕府が成立してかなり時が経っていましたが、まだ治世に不安定な部分があり、徳川の世を固めたいタイミングで乱は起きました。
しかも鎮圧軍の総大将として出陣させた板倉重昌(いたくら・しげまさ)という武将が、まさかの返り討ちを喰らい戦死してしまいます。江戸幕府には衝撃が走りました。
何しろ、いかに大規模とは言え反乱1つを抑えられないとあっては、これまで築き上げてきた威信が台無しです。
新たな総大将として老中を派遣し、九州の諸大名も合わせ10万人以上の大軍を編成。さらに反乱軍の拠点は海沿いにあったため、交流のあったオランダにまで援軍を要請し、軍艦からの砲撃を依頼しました。
もはや「我々だけで何とかする」という体裁にも拘っておらず、いかに幕府が事態を重く受け止めたか、その一端が伺い知れます。
それでも反乱軍はなおも屈さず、頑強に抵抗。幕府軍は軍議で兵糧攻めを行うことを決定し、食糧が尽きて敵兵が弱ったところに、総攻撃をかけて物量で押しつぶしました。戦いは幕府軍の勝利に終わりましたが、経緯を見れば大苦戦させられた事実は間違いありません。
その怒りも影響したのか、捕えられた反乱軍に一切の情けはかけられず、ことごとく処刑されたと言います。また島原を治めていた松倉勝家は責任を問われ、大名としては異例の斬首。 寺沢堅高は天草領を没収となり、命こそ助けられましたが、生き恥を晒したくなかったのか、後に本人は自刃してしまいました。
荒れはてた天草
さて、領主の暴政に始まり合戦で荒廃、しかも反乱軍に加わった多くの領民が戦死・処刑となり、天草の地は完全に荒れ果てていました。天草は幕府の直轄地に指定されますが、この地を治めるべく派遣された代官の鈴木重成(すずき・しげなり)は思いました。
「なんと、これは聞きしに勝る惨状じゃ。しかし何はともあれ、まずはこの法外な年貢を減らさなければ、話にならぬ」。当地の年貢率は前領主が算出した、とんでもない割合のままでした。
鈴木代官は幕府の上層部に訴えました。「この重税では、とても民が暮らして行くことはなりませぬ。まずは妥当な半分の割合へ、変更のご許可を頂きとうござりまする」。
ところが・・その返事は「ひとたび定めた規則の変更は、前例のなきこと。何があろうと、まかりならん」というものでした。その後も鈴木代官は、くりかえし訴えかけますが、年貢の率は頑として変えてはもらえません。
当然のごとく領民は訴えます。「鈴木様、お願いでございます。このままでは、我ら全員、飢え死にするしかありませぬ」。鈴木代官は領民の訴えと板挟みとなって、苦しみます。
天草を立て直すべく様々な手は打ちますが、それを支える領民がボロボロでは、もはや立ち行くハズもありません。追いつめられた鈴木代官は、江戸へ行き最後の手段を行いました。
「かような年貢では、民たちは確実に死に絶えまする。どうか、どうか年貢の半減を。お願い申し上げまする」。このように訴える建白書をしたためると、自邸で切腹。自身の命と引き換えに、幕府へ最後の訴えを叫んだのでした。
しかし、そうまでしても年貢の変更は許可されませんでしたが、鈴木代官の意志を継いだ、養子の鈴木重辰(しげとき)も、あきらめずに訴え続けました。ここにようやく幕府側も折れ、ついに年貢の半減が認められたのです。そして彼は代官として善政を敷き、ボロボロになり果てた天草は、徐々に復興して行ったと伝わります。
神様となったお代官様
その後、天草の領民たちは言いました。「鈴木様は、わしらのために命まで差し出された。今こうして生きて行けるのも、鈴木様のおかげじゃ」「最後の最後で、われらは統治者に恵まれた。何と有り難きことか」。
領民たちは“鈴木様”の亡きあと、地域に鈴木神社や鈴木塚を作り、感謝を忘れないため先祖代々、祀ることにしました。その歴史とともに鈴木神社は、令和の時代となった今も、天草の地に存在しています。
冒頭に悪代官の話に触れましたが、それどころか民衆のために命をかけた鈴木重成公の存在は、真のサムライにして日本一の善代官と感じられます。
歴史は、大河ドラマに登場するような有名な出来事も面白いものですが、様々な枝葉を見て行くと、無名ながらも常識を超えた出来事や、素晴らしい人間の物語が、数多く存在するものです。
もし皆さんも熊本県へ行く機会があれば、ぜひ鈴木神社やその歴史を伝えるスポットを巡り、善代官の歩みに思いを馳せて頂けましたら幸いです。
※当記事は一部、以下の情報を参考とさせて頂きました。