イデオロギーとしての沢村賞はどこへ行く?「時代をリードする先発投手像の提唱を」
2019年の沢村賞は19年ぶりに「該当者なし」となった。堀内恒夫選考委員長は「レベルを落としたくなかった」とコメントしているが、該当者なしを招いた理由は、先発投手のレベルが落ちているからではなく、「理想の先発投手」像を提案できない同賞の選考基準やプロセスにあるのではないか。
伝説の名投手、沢村栄治氏を記念し、そのシーズンで最も優れた先発完投型の投手に贈られる沢村賞の選考委員会が21日に開催された。巨人山口俊と日本ハム有原航平が最終候補となった。しかし、両投手とも肝心の完投が、山口はゼロ、有原も1でしかないのもネックになったようだ。
同省の選考基準は以下の通りだ。
(1)15勝以上、(2)150奪三振以上、(3)10完投以上、(4)防御率2・50以下、(5)投球回200以上、(6) 登板25試合以上、(7)勝率6割以上
はっきり言っていかにも古い。先発投手が週に一度しか登板せず、分業化が進んだ時代にマッチしていないのは多くの有識者が指摘するところだが、それ以上に勝利数や勝率が先発投手の実力を反映していないのはいまや常識だ。2018年にMLBで10勝9敗のジェイコブ・デグロム(メッツ)が、ナ・リーグのサイ・ヤング賞に選出されたことを例に挙げるまでもない。いや、それどころか防御率も偶発的要素に左右されやすいため、その信頼性に近年大いに疑問が呈されている。
現在の選考基準はセイバーメトリクス浸透以前の20世紀のものだと言っても過言ではないだろう。昨年からは、日本版クオリティスタート(先発して7回以上で自責点3以下)の比率も考慮するようになったようだが、これも10年遅かった。
沢村賞はMLBのサイ・ヤング賞と対比されることがあるが、その基準は全く違う。サイ・ヤング賞が実質的な「年間最優秀投手賞」である(したがって、救援投手も対象となる)のに対し、こちらは「理想の先発(完投)型」というもっと情緒的で、ある種のイデオロギーだと言っても良い。これはこれでアリだと思う。
しかし、その選考委員が提唱する「理想の先発投手」像は全くアナクロそのもので、何も新しい価値観の提唱がない。古い基準にしがみつき、それがあまりに時代錯誤になってくると渋々?部分修正する、というのが実態だ。なんとか時代に取り残されぬように付いて行くのではなく、令和の時代の新しい先発投手像を提唱する賞であって欲しい。
その一つの方向性は、WARやFIP、K%、ERA+などの日本のファンの間ではまだそれほど浸透していない統計指標による評価かもしれないし、年間成績から離れて、そのシーズンでの単独パフォーマンス(相手打線を圧倒する登板)を取り上げるというテもなくはないと思う。沢村栄治を伝説にしたのも、極論すれば1934年の草薙球場での全米オールスターに対する登板だ。
ノーベル文学賞は、2016年に数多くの作家を差し置いてミュージシャンのボブ・ディランを選出した。彼が適切だったかどうかは別にして、これくらいの発想の転換も必要だと思う。もっとも、そのためにはまず旧態依然とした選考委員の構成から改めなければならないだろう。ほぼ同世代の元投手たちによる合議制では新しい理念の提唱は期待できない。また、一般論として、受賞歴のある者は改革には後ろ向きとなるケースが多いということも言えるだろう。