ケニアに拠点を移したマラソン須河宏紀選手 富山マラソン優勝で見えてきたものとは
マラソンの須河宏紀選手(28)は23歳の時、ケニアでの練習に参加し、衝撃を受けた。この経験から2019年4月、実業団チームを離れてケニアを主な練習拠点とし、プロ活動を始めた。19年10月27日に行われた富山マラソンでは、2時間22分43秒で初優勝。「海外進出」と「プロ活動」という二つの挑戦の成果を故郷で披露した翌日(28日)、インタビューに応じた。テーマは「ケニアのマラソン」について。メダリストや世界記録保持者を次々と生み出す「聖地」で練習に打ち込むうち、新たな目標も見えてきたらしい。
2時間22分は合格点
――富山マラソン初優勝、おめでとうございます。19キロ過ぎから先頭集団を抜け出して、そのまま独走でした。レースを振り返ってどうですか?
初めて走るコースで、試走もできていませんでしたけれど、2時間20分から2時間23分を想定していたので、合格点です。妹(沙央理/オトバンク)は故障で欠場しました。19年2月の延岡西日本マラソンに続く「きょうだい優勝」を狙っていましたが、できなくて残念です。
――「ケニアに練習拠点を移す」と聞いたときは驚きました。どんな経緯で決断したのですか?
社会人1年目に経験したケニアでの練習が、ずっと心に残っていました。実業団を離れ、オランダの代理人と契約してプロとして活動するに当たり、「日本を離れてケニアで」と思いました。ケニアには有力な選手が集まって切磋琢磨するトレーニング・キャンプという仕組みがあります。日本の高校・大学・実業団の指導者が選手をスカウトしにやってきます。日本のチームに入るか、欧米の企業と契約して世界の賞金レースに出場するかがケニアのマラソンランナーたちの目標なのです。練習量は日本とそれほど変わりません。ただし、標高2000メートル以上で練習をしているので地力がつきます。
イテンは「ランナーの町」
――ケニアでの生活はどうですか? 現地のマラソンランナーの実力についても教えてください。
5月から7月までは首都ナイロビから近いンゴングという町でトレーニングをしていました。8月から10月はケニアで3番目の都市であるエルドレッドから30キロほど離れた町、イテンにいました。イテンは「ランナーの町」として知られ、世界各地から「走りを磨きたい」という選手が集まってきています。ロンドン五輪銅メダリストで、かつての世界記録保持者でもあったウィルソン・キプサング・キプロティチさんが経営しているホテルに滞在していました。
ケニアではまだ実績のない現地のランナーを練習パートナーとして雇ってトレーニングをしていました。彼らは「フルマラソンだと2時間10分台、あるいは一ケタも出せるのでは」と思うほど力がある。でも、経済状況はひじょうに厳しい。食生活は主食だけのことも多く、タンパク質の摂取量は十分ではない。それでもあの走りができるのだから、潜在能力は相当あります。
ケニア人選手PR資料を自作
彼らは現地の地方大会に出場して好成績を残し、ヨーロッパのマネジメント会社や日本の実業団チームから見いだされることを目指しています。ただ、大会エントリーに必要な数千円のお金がないために、レースに出場するチャンスさえ得られていないのが現状です。実力があっても大会に出場できない、そんな無名の選手がたくさんいるのです。「同じランナーなのに、国が違うだけでこうも違うものか。自分は恵まれている」と実感しました。
そんな逆境の中でも懸命に練習している現在の練習パートナーの「ロバートさん」は素晴らしい選手です。彼はとても親切にしてくれて、「少しでも力になりたい。何とか結果を出してほしい」と思わずにはいられません。彼以外にも一緒に練習してくれた選手は皆、とても親切でした。プロ選手として日本国内の企業を回ってスポンサー探しをしながら、自作の「ケニア人選手PR資料」を見せて、出会う人達にケニアの現状を伝えています。
まだ企画の段階ですが、ケニアの選手を日本のマラソン大会に招聘するプロジェクトを実施していきたいと思っています。現在は日本各地で大きなマラソン大会が開催されるようになり、かかる経費と利点を紹介すると関心を持ってくれる方もいます。渡航・日本滞在・エントリーなどの経費を企業から支援してもらい、ケニア人選手が日本の大会で、支援企業名をウエアに付けて出場するのです。
上位争いをするレース展開になれば、広告効果が生まれます。実際、彼らにはそれだけの実力があるので、日本各地のマラソンレースを盛り上げることにも一役買えるのではないかと考えています。また、大会期間中のみの契約となるので、支援企業にもそこまで負担はかからないと思っています。
ケニアと日本を繋げたい
また、このプロジェクトを発展させていけば、労働力不足に悩んでいる日本企業に一般のケニア人、あるいはケニア人選手を労働力として迎えることができると考えています。実際に、「日本で働きたい、あるいは働きながらでも競技をしたい」という選手は大勢います。日本で就労した経験を生かせば現地に帰っても、日本企業がケニアに進出した際にサポートできる人材として重宝されるのではないかと思っています。
日本がこれから直面する問題の解決と、彼らのセカンドキャリア問題の解決ができるのではないかと考えています。ケニアはもともとイギリス領なので英語でコミュニケーションできますから日本人との交流は、しやすいはずです。ケニアのランナーと一緒に練習するうち、「マラソンをきっかけにケニアと日本を繋げたい」「彼らにチャンスを与えたい」と考えるようになりました。
――須河選手自身の今後の活動資金をどうするかも課題です。アスリートでありながら「自分を営業する」こと、大変ではありませんか。
11月中には、会社を設立したいと考えています。やはり体制を整えていかないと、スポンサー企業を募るときに信頼を得られません。会社の設立、名刺・ホームページの作成など、自分を信用していただけるように競技以外の部分でもやらなければならない取り組みがあります。また、自分のスポンサー先を探しながら、ケニアのランナーたちの実情を訴え、彼らへの支援も募っていくつもりです。
何でも自分でやらねば
営業の経験は、アスリートがセカンドキャリアを歩む上での大きな武器となると思っています。また、経理などをはじめ自分でしなければいけないことが多くなります。実業団時代は会社が全てその役割を担ってくれていたので、今はそのありがたみが分かります。富山商業高校は国際経済学科、中央大学は経済学部で学びましたが、あらためて習得すべきことが多いです。それらの業務に時間を割かないといけないのは大変ですが、いい経験になっていると感じています。
とはいえ、全てのアスリートが事務処理などの役割までを負う必要はないと考えています。私はもともと、そういった会社運営にも興味があったのですが、中には24時間競技に専念したいというアスリートもいる。自分が経験したことをうまく体系化して、それを今後、独立したいという意志のあるランナーのサポートにも生かせないかと考えています。
プロになるハードルが下がり、選択肢が新たに加わることで、選手たちがよりよい競技生活を送ることができるようになれば、また陸上界も発展していけるのではないかと思っています。広い視野で考え、選手の個性を伸ばせる指導者になりたいという夢もあるので、現役選手のうちに試行錯誤しつつ、この経験を将来に繋げていきたいと思います。
年内に2時間10分台を
――今後の予定と、競技者としての当面の目標を教えてください。
国内でしばらく練習して12月の大会に出る予定です。自己ベストは、今年2月の延岡西日本マラソンでマークした2時間11分46秒です。年内に何とか2時間10分台を出したいと思っています。実業団時代にマラソンで結果を残せなかったことから、「失敗したまま競技人生を終わることは不本意だ」と思ってやってきました。当然、世界選手権や五輪などの出場は目標ですが、国際的な大会は世界中にたくさんあります。世界各地の賞金レースで結果を出し30歳までに2時間ひとケタ台で走る力を付けたいと思います。
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須河選手は高校時代に都大路、大学時代は箱根と大舞台での経験を積んだ。中央大学を卒業後、横浜DeNA入りし、1年目に出場した初マラソンは完走するのがやっと。3年目の2017年2月、青梅マラソン(30キロ)で3位に入ったが、戦力外通告。「マラソンで結果を残したい」との思いから、実業団チームとしてはまだ歴史の浅いサンベルクスへ入社し、18年の全日本実業団駅伝にチームとして2度目の出場を果たす原動力となった。チームへの感謝はあったものの「やはりマラソンに絞って練習したい」と19年3月末で退社した。
新天地・ケニアで須河選手は多くのことを学んでいる。マラソンだけでなく、英語に国際情勢、貧困の現実など。行ってみて初めて分かることは少なくない。仲間から「日本人はケニアが危険だと思ってるかもしれないけれど、そんなことはない。君も来てみて分かっただろう。日本人が来てくれたら自分たちの仕事も増える、日本に帰ったらそう呼びかけてほしい」と言われたそうだ。
走りながら「何かできないか」と考え続けている。富山マラソンでの優勝は、故郷の企業に対する知名度を一気に高めた。「自身のスポンサーだけでなく、ケニアのランナーを支援する力を集めたい」。須河選手は自分と仲間のために、結果を求めて走っている。
須河 宏紀(すがわ・ひろき) 1991年6月生まれ、富山県南砺市出身、28歳。同市利賀中、富山商高、中央大卒。富山商高では3年連続で全国高校駅伝の1区を走る。3年時には全国高校総体の1500メートル、5000メートルに出場。中央大では2年時から3年連続で箱根駅伝出場。2014年4月から3年間は横浜DeNAに所属して16年、17年と全日本実業団駅伝に出場し、チームの入賞に貢献した。17年5月にサンベルクスへ移籍し、19年2月の延岡西日本マラソンは2時間11分46秒で優勝し、妹・沙央理も女子の部を制した。同年3月にサンベルクスを退社し、練習拠点をケニアに移して、プロランナーとして活動している。
※須河選手のnote。ケニアでの練習の様子について紹介している。