朝鮮人民軍No.3の作戦局長も処刑されていた!
韓国情報機関・国家情報院傘下の国家安保戦略研究院が発表した白書によると、金正恩政権が2011年12月に発足してからの5年間で粛清、処刑された人数が340人に上る。
粛清・処刑された340人には一般住民も含まれているが、幹部に限っては12年に3人、13年に約30人、14年に約40人、15年に約60人と増加傾向にあり、その数は約140人に達すると、集計されている。
白書は、処刑された代表的な事例として、金正恩委員長の伯父でもある張成沢党政治局員(2013年12月)、玄永哲人民武力相(2015年4月)の党・軍最高幹部の他、すでに報道されていた崔英健副首相(2015年5月)や金勇進教育相(2016年7月)に加え、2015年2月に解任された辺仁善第一副総参謀長兼軍作戦局長も処刑者の中にリストアップされていた。
(参考資料:国防相に続き副総理も 北朝鮮で粛清・処刑の嵐 次は誰だ!)
党中央委員でもあった辺仁善将軍(70歳)は生粋の野戦軍出身で、4軍団長(司令官)だった2012年には「我が軍団将兵の心臓は李明博逆賊廃党に対するこみ上げる怒りと復讐心で燃え滾っている」と述べ、「青瓦台であれ、仁川であれ、すべて火の海にして一人も残らないようにしてしまう」と韓国を恫喝した武将として知られていた。
辺将軍は2013年に人民武力部入りし、副部長に就任。それから僅か1か月後の8月に軍総参謀部作戦局長に抜擢され、制服組NO.3となった。翌年(2014年)3月には大将に進級し、6月には第一副参謀長のポストも兼ねることになった。
しかし、金委員長の人民軍連合部隊の訓練に同行した2014年10月24日を最後に忽然と消息を絶った。翌2015年1月7日、朝鮮中央通信の報道で作戦局長が金春三将軍に交代していたことが判明した。こうしたことから2015年2月に粛清説が流れていた。
当時、韓国政府も粛清を確認できなかった。統一部のイム・ビョンチョル代弁人は「公開の席に姿を見せなかったのは事実だが、粛清されたかどうかはわからない」とコメントしていた。
これに対して韓国紙「韓国日報」は2015年1月13日付で「酒を飲んで、金正恩の悪口を言ったことが問題とされたようだ」と伝えていた。また、米国の対北心理戦媒体である「自由アジア放送」は1月31日付で「金正恩が昨年10月に対南交渉のため軍部に挑発を自制するよう指示を出したのに軍部が従わず、西海事件を引き起こしたため最高司令官の命令不服従の罪で軍将軍らが処刑された」と報じていた。この他に「金正恩に逆らい、外国との軍事協力について異見を述べたことが問題にされた」との説も流れていたが、粛清説は未確認のままだった。
処刑・粛清の嵐が吹き荒れた2015年7月13日付の労働新聞2面に「野戦型の指揮官」という見出しの記事が載っていた。
「敬愛する最高司令官同志の命令には『わかりました』という答えしか知らない軍司令官だけが真の同志である」と強調し、金正恩委員長の指示、命令には「わかりました」と無条件従うよう促していたが、辺仁善大将の粛清・処刑が確実ならば、玄永哲人民武力相と同じ罪状なのかもしれない。
金正恩政権になって作戦局長は現在の林光一(2016年1月~)で5人目だが、人民武力相のポストも金正角(2012年2月~2012年11月)→金格植(2012年11月~2013年5月)→張正男(2013年5月~2014年6月)→玄永哲(2014年6月~2015年4月処刑)→朴英植(2015年5月~)と5人目である。
また、人民軍総参謀長も粛清された李英鎬次帥の後、玄永哲(2012年7月~2013年5月)→金格植(2013年5月~2013年8月)→李永吉(2013年8月~)→李明秀(2016年2月~)とこれまた5度も交代させている。
ちなみに先代の金正日総書記は、金日成政権下の呉振宇人民武力相を死ぬまでそのポストに就えていた。呉振宇元帥は1976年5月から78歳で亡くなる1995年2月までほぼ20年その座にあった。金正日総書記は政権交代を理由に軍最高幹部を変えることはしなかった。
金日成主席死去(1994年7月)翌年の1995年10月に金正日政権下で軍総政治局長に登用された趙明録次帥も同様で2010年11月に82歳で亡くなるまでの15年間その座にあった。同じく1995年10月に総参謀長に起用された金英春次帥(現在80歳)も2009年に人民武力相に移動するまでの14年間、一貫して同じポストにあった。
いつになったら、金委員長は軍の人事をとっかえひっかえすることなく、固めることができるのだろうか?