2000年の大統領就任時から際立っていたプーチンの危険な強権体質
プーチンは世界の悪役ナンバー1
ウクライナに今にも侵略しそうなロシアですが、ロシアの強硬な対外戦略を主導しているのは、もちろんプーチン大統領です。
日本では森喜朗・元首相、安倍晋三・元首相などのようにプーチン大統領への絶大な信頼感をアピールする政治家もいますが、G7など西側主要国ではプーチン大統領は民主主義や人権擁護の「敵」として完全に危険視されています。世界の悪役ナンバー1と言っていいでしょう。
もっとも、プーチン大統領は急に悪役になったわけではありません。日本では前述のように、有力政治家がプーチン善玉論を大々的に拡散していた影響もあって、プーチン大統領の危険性はあまり主要メディアでは採りあげられてきませんでしたが、欧米諸国では2014年のクリミア併合以降、完全に悪役として報じられています。
筆者自身も、その頃からプーチン大統領の危険性を指摘する記事を多く書いてきました。その一部については、当サイト(YAHOO!ニュース個人)の過去記事でもご紹介しています。
▽人権団体「メモリアル」に解散命令 ~国内外で憎悪と分断を煽るプーチン政権「ナチス体質」な歩み: 黒井文太郎 2021/12/29
もっとも、プーチン大統領は2014年に急に危険になったわけではありません。彼は2000年に大統領になったのですが、その直前、エリツィン元大統領に首相に抜擢されたときにチェチェン侵攻を主導しており、大統領就任直後からは元KGBの仲間たちなどと協力してメディア支配、新興財閥追放、ナショナリズム扇動などを駆使し、強力な警察国家の再建に邁進してきました。その間、政敵や民主派ジャーナリストが何人も不審死を遂げています。
そういった意味では、プーチン大統領の強権的な姿勢はもともとのものです。
2000年代にはその剛腕がロシア国内や近隣地域(ジョージアなど)での支配圏確立に注力されましたが、2010年代に入り、米国が「世界の警察」を辞めると宣言した間隙をついて、世界規模での支配圏確立に乗り出したという経緯です。
そうしたプーチン大統領の強権的政治の流れについては、こちらの拙稿でも説明しています(ご参考まで)。
▽彼はいかにして「侵略者」になったか? プーチンの危険な足跡 ~秘密警察のスパイが、世界平和を脅かす独裁者として君臨するまで: 黒井 文太郎(JBpress)2022.2.1
このように、プーチン大統領の強権統治志向は一貫したものですが、それについてはインテリジェンス分野のウォッチャーの間では、初めから注目されていました。
筆者はかつて月刊誌「軍事研究」の2000年3月号から「ワールドワイド・インテリジェンス」という欄を担当していたのですが、そこでもプーチン大統領はもう常連と言っていい頻度で登場します。それだけ注目される存在だったわけですが、その「プーチン大統領が登場した時期」の同誌拙稿記事の内容をご紹介してみます。
プーチン首相時代のモスクワ連続爆破テロへのFSB陰謀疑惑
まず、前述したように筆者の担当欄は2000年3月号(2月発売。記事入稿は1月中旬)から開始されたのですが、その第1回の冒頭記事が「プーチン大統領代行はスパイだった」です。当時はまだ彼は大統領代行だったのですが、次期大統領が確実となっており、世界中のメディアが「プーチンとは何者だ?」との視点で報じていました。
同記事で筆者は、主にドイツのメディアがプーチン氏のスパイ時代のドイツでの活動を追った記事を紹介していますが、同記事の最後に、彼が連邦保安庁(FSB)に警察の一部を吸収させて強化する案を示唆したことを紹介し、「KGB出身という経歴による志向性が、このようなところにも垣間みえる」と締めています。
いずれにせよ当時、世界のインテリジェンス・ウォッチャーの間では、元KGB工作員がロシアの最高権力者になったということは非常に注目を集めており、筆者の担当欄でも最初のテーマに選んだという経緯でした。
続いて同誌2000年5月号には、以下の2つの関連記事を書いています。
「旧ソ連諸国の合同治安機関創設へ」
「連続爆弾テロにロシア情報部陰謀説」
前者では、同年3月10日にモスクワで開催されたCIS(独立国家共同体)内相会議で、プーチン大統領代行(当時)が、FSBを中核とする合同治安機関の創設を呼びかけた件などを紹介しています。
また、後者は、1999年に始まった第2次チェチェン紛争の引き金になったモスクワの連続爆弾テロで、英メディアがFSBによる陰謀の疑いを報じた件を紹介しています。これは未だに証拠は挙がってはいませんが、その後のロシア内外の勇気あるジャーナリストたちの調査報道により、ほぼ確実視されています。
「ロシア政界では、プーチンと通じる旧KGB人脈の台頭が著しい」
同誌2000年7月号(同年5月入稿)でも冒頭に「プーチン政権のスパイ人脈」との記事を書いています。その後のプーチン政権の強権ぶりを予想させる内容なので、引用してみます。
旧KGBの仲間たちと新興財閥を追い落とす
筆者は上記記事でプーチン大統領の権力基盤強化を予測していますが、実際、それは早いスピードで進められました。翌月号の同誌では「対外情報庁を掌中にしたプーチン」との記事も書いています。プーチン大統領が、プリマコフ派のSVR長官の罷免と、自身に近い人物の新長官抜擢を決めたらしいとの情報の紹介です。
現実にその人事は行われるのですが、その新長官について、こう書いています。
なお、同号では他にも「ロシアは今でも覇権国家?」という記事も書いています。こちらはとくにプーチン大統領の動向を追った記事ではないのですが、ロシアが海外の紛争で盛んに秘密工作を仕掛けているとの情報を紹介しています。
その後も同誌では、プーチン大統領のロシア国内での強権ぶりを追っています。
たとえば同誌2001年2月号では「プーチンVS政商連合対決に決着」と題し、旧KGB人脈を中心とするプーチン政権が、強大だった新興財閥を次々と排除した経緯を紹介しました。
テロ対策を口実に情報機関の権限強化へ
こうして強権的な体制を構築したプーチン政権は、ロシア国内だけでなく、対外的にも強い態度を段階的に取り戻していきました。同誌2001年5月号では「米露のスパイ追放合戦」と題し、米国とのスパイ戦が過熱していることを紹介しましたが、記事中、「ここ1年ほどのプーチン政権での情報機関再建により、確実にその(対米スパイの)人員が拡充され、活動も活発化してきた」と記しています。
同誌2002年4月号では「プーチンが情報機関を強化」との記事を書きました。記事中の一部を引用します。
プーチン大統領はこのように、2000年の大統領就任直後の時期に、古くからの仲間である旧KGB将校を政権中枢に呼び寄せ、強引にロシア国内での強権統治を強化してきました。
当時、新興財閥に反感を募らせていたロシア国民からは強い支持を受けましたが、その強権的な支配の手法は、やがて国内での独裁に繋がり、海外での非平和的行動に繋がっています。今回のウクライナへの軍事恫喝は、そうしたプーチン政権の体質がもたらした必然的な帰結とも言えます。