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【九州三国志】毛利との毛利との抗争、そして激動の筑前戦線!大友宗麟と道雪、十年の戦乱を駆け抜けて

華盛頓Webライター
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永禄年間、大友宗麟の下で戸次鑑連(のちの立花道雪)は豊前・筑前を巡る毛利氏との苛烈な戦いに明け暮れました。

弘治3年(1557年)、毛利元就と結んだ秋月文種を追い詰めて自害させ、五箇山城を攻略すると、毛利との抗争が本格化します

永禄3年には筑前の宗像氏を攻め、香春岳城や門司城、松山城などの要所で毛利軍と激突しました

とりわけ門司城の戦いでは、柳ヶ浦で繰り広げられた幾度もの攻防が印象的です。

家臣・由布惟信や安東常治らの奮戦で大きな戦果を挙げる一方、門司城そのものを攻略するには至らず、道雪率いる大友軍はたびたび撤退を余儀なくされました。

宗麟の命で再三の出兵が行われる中、道雪は永禄5年(1562年)に剃髪し、麟伯軒道雪と号します

同年、足利義輝の仲介により毛利氏との休戦が成立しましたが、戦火は止むことなく、永禄7年には第四次柳ヶ浦の戦いが勃発。

さらに宗麟自ら筑後に進出し、下田城攻略や秋月種実討伐を指揮します。

道雪も筑前での戦闘に参加し、宝満城や岩屋城を攻略するなど、毛利方の勢力を削ぎつつありました

永禄10年(1567年)、秋月種実が毛利の支援を受けて挙兵すると、道雪は再び前線に立ちます

筑前各地で秋月氏や高橋鑑種の反乱を鎮めつつ、夜襲や陣中戦術を駆使して秋月軍を撃退。

しかし、毛利の援軍が立花山城を占拠すると戦況は厳しさを増し、大友軍も多くの将を失いました。

それでも道雪は果敢に反撃し、永禄11年(1568年)には立花山城を包囲

家臣たちの奮闘により城はついに陥落し、立花鑑載は自害に追い込まれます。

この勝利により、筑前の反乱勢力は一掃され、道雪の活躍は大友家の安定に大きく寄与しました

毛利氏との争奪戦が続く中、宗麟は大内輝弘を周防国に送り込み毛利を牽制

さらに尼子氏の再興も相まって、毛利軍は戦線を維持できなくなり、永禄12年(1569年)には撤退を余儀なくされました

10年にも及ぶ毛利との筑前戦争はここに終結。道雪は筑前戦線を小康状態に戻し、引き続き龍造寺氏との対決に備えます。

元亀元年(1570年)、道雪は龍造寺隆信討伐に出陣します

佐賀城を包囲し、巨勢・若宮の戦いで奮戦するも、今山の戦いを経て戦局は膠着。

輿に乗りながら指揮を執る道雪の姿は、この激戦がいかに過酷であったかを物語っているのです。

主君・宗麟と共に10年以上続いた抗争を乗り越えた道雪は、戦国九州の激動を体現する武将として、歴史にその名を刻みました

この一連の戦乱は、毛利・秋月・龍造寺といった多勢力が絡む複雑な覇権争いの縮図であり、大友宗麟の戦略と道雪の武勇が光る戦国史の一幕でした。

Webライター

歴史能力検定2級の華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

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