[高校野球・あの夏の記憶]「うまいカツオを……」2002年、明徳初優勝で馬淵節全開!
「早く高知に帰って、うまいカツオを食いたいわ」
明徳義塾(高知)・馬淵史郎監督の"馬淵節"が響いたのは、2002年夏。念願の初優勝を遂げたあとだ。
智弁和歌山との決勝は、5点をリードして9回も2死。最後の打者・馬場優司の打球がサードに転がり、これを1年生の梅田大喜が慎重に処理して、一塁へ送る。山口秀人のミットがスパンと心地いい音を立てたときには、”寮長“こと森岡良介(元ヤクルトほか)の視界は涙で曇っていた。キャプテンとして、野球部員118名が共同生活する”青雲寮“の寮長も兼ねる。大阪の実家を離れ、楽しさも苦しさも仲間と共有してきた2年半、そのあれやこれやを思うと、たまらなくなった。
「みんなでつかんだ優勝なんで……県大会でも、常総学院(茨城)戦でも、いったんは負けを覚悟したんで……野球ができる喜びを感じながらプレーできました」
いったんは負けを覚悟。明徳初優勝への道は、そこからスタートしている。絶対的本命として臨んだ高知大会。準々決勝の岡豊戦は、同点の8回に1死三塁、最終回に無死満塁の大ピンチを招いた。ここを綱渡りで切り抜け、延長12回にようやく勝ち越して九死に一生を得ている。今回は、甲子園に来られただけで幸せ……顔を合わせたとき、馬淵監督の口をついて出たのはホンネだったろう。
だが、馬淵監督は手応えを感じてもいた。このチームには、不思議な運がある。ベスト8に終わったセンバツ以来、ふたたび甲子園に来るまで、練習試合と公式戦合わせて行った43試合を、引き分けひとつだけですべて勝っているのだ。投手力、走塁を含めた攻撃力、そして守備力がバランスよく充実している。
甲子園でも、まずエース・田辺佑介が酒田南(山形)を5安打完封だ。これで明徳は、春夏合わせて初戦14連勝(これは甲子園新記録)、夏に限れば初出場以来の9連勝をマークした。2回戦は、1年生・梅田の一発などで9対3と青森山田を一蹴し、春夏通算30勝。だが、馬淵監督にはひとつ気がかりがあった。
「ウチは三番(森岡)、四番(筧裕次郎・元オリックスほか)で得点するのが本来の勝ちパターン。その森岡の調子が、上がってこないんよ」。1、2回戦では9打数で2安打しているものの、森岡本人も「正直いって、あまり調子はよくないです」と告白していたものだ。
そして、常総学院との3回戦。2点を追う8回も、簡単に2死となる。だが、山田裕貴のなんでもない三塁ゴロが悪送球を誘い、息を吹き返した。続く沖田浩之がはじき返した打球は、同点の2ランとなってライトのポール際に飛び込む。打席には、森岡が入った。馬淵監督からは「オマエが打たな、勝てんのや」とこぼされ、前日は宿舎の駐車場で遅くまで素振りをした。白い革手袋がダメになり、この日は新しく黒のそれで心機一転を図っている。
花道の段階で、雰囲気があったね
その、初球。インコースのシンカーをフルスイングすると、美しい軌道を描いた白球が右翼席中段に飛び込んだ。森岡が黒い革手袋のこぶしを突き上げる、一瞬の逆転——。
のち、馬淵監督にこのシーンを振り返ってもらったことがある。
「あのときは、打席に向かういわば花道の段階で雰囲気があったね。打席でも、良介が右足下ろした瞬間、"行ったな"という感じ。8回で2点リードされているのを追いつき、勝ち越せる選手たちをほめたいね」
結局明徳は、この試合を7対6で逆転勝利。しかも残塁0という珍記録だった。馬淵監督は、この勝利で流れを実感したという。
「その夜、選手にいったんよ。"ここまで(センバツ後から)55連勝なんやから、あと3勝をプラスするのはさほどむずかしくないで"。優勝するときいうんは、あんなものでしょうねぇ」
流れ、だ。「準決勝は、"小嶋達也(元阪神)のいる遊学館(石川)だったらいややな"と思っていたら、相手は川之江(愛媛)。練習試合では、エースの鎌倉健(元日本ハム)から9回に7点差をひっくり返しているんよ。決勝も、どちらかというと帝京より智弁がやりやすいと思っていたらその通りになって」と馬淵監督は振り返る。そうして、7対2の快勝だ。
「やってもやってもベスト8、ベスト4止まり。自分の監督生活では、最後まで優勝できないんじゃないかと思ったこともあります。選手たちが私を男にしてくれて、本当に感謝しています」。
ときどき口は悪いが、情にもろい馬淵監督が声を詰まらせる。田辺、森岡とともに、つねにチームの支柱だった筧がいった。「監督さんを男にできてよかったです」。いわゆる「松井5敬遠」でヒール扱いされたときから、ちょうど10年での頂点だった。