「知る権利」vs.「忘れられる権利」
過度の「忘れられる権利」の行使はネットの根幹に関わる問題です。個人や組織の不都合や不利益が、社会全体のそれにつながるか否かという問題です。「不都合な真実」が隠されるような事があってはなりません。
今年5月になって欧州連合司法裁判所が、不適切な検索結果、特に過去に事実であったとしても、十分に時間が経過した現在であっては不適切な表示に対して削除する(非表示とする)決定を下しました。これは個人のプライバシーに関して、ネット上での検索制限を課したことに他なりません。よく言われるようにネットでは「時間」と「空間」を超越します。一度、ネット上で明らかになった事実は、その真偽に関わらず、未来永劫、そして誰でもが知ることが可能になります。実社会では、事実上、それが制限されます。その制限は恣意的に行われるのではなく、自然に制限されるのです。記憶から忘れ去られるのが通常であり、その記憶や記録を掘り起こそうにも多大の労力が必要になります。ネットではそれが容易なのです。特に検索というネット上の道具を使う事よって、誰でも簡単にその記憶である記録を呼び出せるのです。プライバシーとの関連で、この事実が大きな問題になっており、欧州での判決となりました。日本でも同様の問題が起こっているのです。
たとえば過去の犯罪歴です。罪を犯した当時の記事は掲示板や個人のブログ等に、その詳細な内容が書かれ、それが未来永劫残ります。実社会では、特に罪を償った後は、人の記憶から薄れ、その記録も一般の人からはたどり着き難いものになるのが通常です。しかし、ネットでは名前を検索するだけで、その過去の記録に容易にたどり着けるのです。過去の事、そしてその罪を償った後とは言え、事実上は、当事者の社会復帰や社会生活に支障がないとは言えません。
情報の廃棄物としての処理の問題が顕在化したとも言えるかもしれません。自然界における一般の廃棄物は、自然の浄化作用によって、自然物、つまり土や水等に帰っていきます。しかし、自然ではなく人が合成した人工物、たとえばプラスチック等の産業廃棄物は、特別な加工をしない限り、自然物に帰ることはないのです。近年のネット社会での情報もそれに近いのかもしれません。特別な加工、つまり自然な廃棄ではどうにもならず、やはり人工的に再加工する、つまり強制廃棄する必要があるのではないでしょうか。
とはいえ、過度の「忘れられる権利」の行使はネットの根幹に関わる問題となります。つまり個人や組織の不都合や不利益が、社会全体のそれにつながるか否かという問題です。「不都合な真実」が隠されるような事があってはなりません。