【シリーズ】地方に移住したパパたちを追って~広島編〈1〉前編~
首都圏などの大都市部にいるパパたちがもっと地方に関心を持ち、地方の人と交流を増やしていく。そうした活動をどんどんと展開していくことで、最終的に地方に移住をする「家族」も増えるのではないか。
「家族」という単位でもっと地方を志向する刺激を与えられることができるのならば、地方の人口も単純に1人増ではなく、2人、3人、4人またはそれ以上に増えていく可能性が十分にある。つまり、「地方創生」の鍵は「家族」が握っているのであり、なかでもパパにアクションをかけることで、パパ(男性)の働き方に変革をもたらすと同時に、ママ(女性)の生き方を肯定し、そして家族の幸福のさらなる追求につながるのではないかと考える。
それを動かす原動力として「グリーン(緑)」がある。これから筆者が事業として展開していく「グリーンパパプロジェクト」では、地方に関心を持ってもらうための素材として、農業や林業などの第1次産業などの体験、グリーンツーリズムなどを活用しながら、大都市部にいるパパたちがもっと地方に関心を持つためのプログラムを自治体や企業などと連携をして構築しようと考えている。
そして、このプロジェクトの一環として、地方や農業などに関心を持ち、実践をしているパパたちの“見える化”を図っていきたいと考えている。パパたちの多様なチャレンジをお届けすることで、いま自分にできる一歩をパパたちに提案していきたい。
そこで今回、広島県地域政策局地域力創造課の協力を得て、昨年12月に実際に同県に移住をしたパパ2人にインタビューを行った。
広島編〈1〉は、2009年に埼玉から広島県安芸高田市にUターンをし、家族を対象にした農業体験事業や周辺農家で収穫した野菜を飲食店などに配達する事業などを展開している「株式会社まごやさい」(※)代表取締役有政雄一さんとの対談をお届けする。
子育て論から、Uターンの経緯、農業体験事業、そしていま最も力を入れている野菜流通事業について話を聞いた。
※「まごやさい」が運営するのホームページはこちら。
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子育てに対する思いとUターンに至るまで
吉田:今日はよろしくお願い致します。
有政:いきなり逆質問で恐縮ですが、グリーンパパプロジェクトの活動の目的を教えてください。このプロジェクトは、子どもを対象にしたものなのか、もしくは、親に対象を当てたものなのか、それとも、その両方という感じなのか。
吉田:パパにフィーチャリングすることで、子どももママも連動して、「みんなが幸せになれる」という形ができたらと思ってます。いまの日本の社会的な構造を考えると、やはり父親が働いているケースが多いので、父親が決断したり、動いていかないとやはり変わらない。長時間労働の問題もあります。父親が意識的に働き方を見直したり、変えたりしていくことで、子どもとの時間を増やしたり、そうすることで親子関係が深まったりします。特に、東京などの大都市圏だと、長時間労働に加えて、通勤時間も1時間以上かかることが普通。すると、帰ってくる時間が22時以降になってしまう。多くのパパが子どもの寝顔しか見ない状況です。女性の場合は妊娠・出産を通して親としての自覚が芽生えやすいですが、男性の場合は子どもが生まれても生理的な変化があるわけではない。自分の体を通して変化することがない。そう考えると、子どもとの時間を確保していくことが親子関係を作っていく上では大事なことだと考えます。いま自分自身はひとり親ですが、子どもとの時間が増えることで、子どもの気持ちを理解したり、親子の絆も深まっていくと思います。そこを置き去りにしているパパたちが世の中的にはまだまだ多い。働き方を見直すということだけではなく、いま都市部だと待機児童の問題や、子育て環境を考えると、子育てしやすいとは言えない状況があります。東京の湾岸エリアのマンションが乱立する地域では、1学年10クラスあって、運動会になると親と子が座ってお弁当を食べるスペースがなく、子どもたちは教室に戻って自分たちのお弁当を食べて、親は外で食べてくるという話も聞きます。まぁこれは一面に過ぎませんが、少々味気ないような気がします。そうした窮屈な環境で育ってしまうと、子どもの成長にも何かしら失うものもあるのではないかと思っています。
それを逆転の発想で、もっと地方で住みながら仕事ができる仕組みに変えていくことで、働き方の見直しにもつながり、子どもとパパの関係も深まるチャンスが増える。ママにとっても自分の仕事や地域のつがなりを構築していくことにもつながっていくのではないかと思います。まずはパパに意識付けをする活動を通して、みんなが幸せをつかみ取れる方向性を生み出していけたらと思っています。
有政:私は農業体験を通じて日本を背負って立つような人作りをしたいとの思いでやっています。この道を選んだ究極最後の目的は何かと言われれば、子どもたちに最高の環境を提供したいということ。自分で考えたり、チャレンジしたり、そんな体験を小さいころからやっておくことがとても大事だと思っています。激動の時代でも「生き残る、切り開く」ことができる子どもたちであってほしい。なので、うちの体験は緩いものではありません。かなりキツイことをさせていると思います。例えば田んぼを畑に変えるという課題を子どもたちがやり遂げる体験プログラムを行ったりします。
吉田:僕が子育てで常に意識していることは、親が子どもに対してできることって、お金をかけていい教育を受けさせるということではなく、もちろんそれができるに越したことはないかもしれませんが、いかに子どもに生き抜く力を与えてあげられるかどうかだと思っています。それって親が何でもかんでもレールを引いてしまって、いい高校いい大学いい企業に入れば親としての役目が終わったのかというと決してそうではなくて、いまで言えば、まさしくメンタルをやられてうつ病になったりして休業や退職に追い込まれ、引きこもってしまう若者が増えてます。自分自身の力でその道を選んで、失敗するかもしれないけど、たとえそうであったとしても、子どもの生き抜く力を養えるかどうかだと思います。それが親としてできる最も大事なことだと思うし、いま自分も子ども3人を1人で育てているので状況としてあまり手を掛けられないところもありますが、逆に子どもたちが自分たちで考えて、「何やろう?」「これやろう!」ってやっていく姿のほうがたくましいと思うんですよね。それを家の中だけではなく、もっと外に出て、そういう形でいろんな作業ができたらと思っています。体験型のプログラムでも、最初から答えが提供されているようなものもあります。マニュアル通りにやれば誰でもできてしまうようなものですね。
有政:そもそも論みたいなものがあって、要は明らかに親としての自覚が薄くて、子どもとの関わりが少ない。これは親の責任放棄だと思います。これは大きな問題。それに対して啓蒙活動をしていくのは大変素晴らしいことだと思います。子どもを作るのは精神的に大人にならなくてもできます。ただ、子どもを育てるというのは、親としての責任を果たすということであり、その責任を果たすためには、子どもとの接点をキチンと設ける必要があると思います。その時間をかけましょうという活動は大正解だと思います。自分は子どもが小さいときに妻とよく話し合ってましたね。
吉田:最初のお子さんが生まれたときはどちらに?
有政:福岡ですね。
吉田:福岡にはどれくらいいましたか?
有政:自分自身は福岡に計9年いました。大学4年間と、社会人が5年間。福岡で第1子が産まれたときに、どういう子育てをするかを夫婦でよく話し合って、方針を立てました。そのときに出てきたのが「自律」と「自立」。自らを律して自らを立つということです。これを基本方針に決めました。
吉田:最初から、その境地に至ったのはすごいですね。2人でそういうふうにしていこうと?
有政:子育ての原理原則みたいなところですね。いま上が18歳、下が15歳になりましたが、いまだにその通りやっています。1ミリもぶれていませんね。
うちも年間300人位の親子が来ます。その親子を見ていたらわかるんですよ。対等な形で、子どもを一人間として捉えているか、主従や強弱の関係で子どもを捉えているか。それは会話とかやり取りをみているとよくわかりますね。
吉田:うちも子どもが4、5歳のときに自転車を買いに行って、中古の自転車やでったんですけど、彼に好きな自転車選んでいいよって言ったら、真っ先に飛びついて行ったのが、ピンクの自転車でした(笑) 男の子なので「ピンクの自転車かよ」と最初に思ったのですが、当時は戦隊モノをよく観ていて、なかでもピンクが大好きでした。親はそれを分かっていたので、彼が目をギラギラさせながら、「ピンクがいい」というのを否定して、「青にしなさい」と言うべきではないと思い、そのときはピンクの自転車を買いました。彼は喜んで、当時住んでいた団地内で乗り回すようになります。そうすると、周りの友達から「男なのにピンク乗ってる~」とバカにされるようになります。すると彼自身の中で、ピンクは恥ずかしいから卒業しようという気持ちが芽生え、ピンクを自分の力で卒業するに至りました。おそらくそうなるような気はしていましたが、それは親が決めることではなく、自分の体験を通じて考えていくということが大事だと思います。逆にそれでも「俺はピンクがいい」と言って、ピンクを乗り続けるかもしれなかったわけですが、それはそれでいいと思います。それは自分としての選択です。自分がいかに主体的に選択できるかどうかというところが大きいと思います。
福岡の後は埼玉に住んでいたとのことですが、どのような仕事をされていたんですか?
有政:当時はリクルートエイブリック(現在のリクルートエージェント)という転職あっせんの会社にいて、9年在籍しました。その後「スピリッツ」という会社に行きましたが、それは元の上司が作った会社に後から入ってという感じです。スカウトをする会社ですね。リクルートを辞める最後の年にたまたま社内の教育体系を作ろうということになり、そこの専任マネジャーに選ばれました。それまではキャリアカウンセラーと呼ばれる対個人に対しての仕事でしたが、初めてスタッフの仕事に就きました。教育の仕事というのは、ホントに裏方ですが、大いなる確信をもって進めなければなりませんでした。自分は当時それが苦手で、それまで仕事で評価されてきたと思っていたのですが、そこで初めて仕事ができない自分に出会いました。「なんとかせな、なんとかせな」と思っても何もできず、最後の3ヵ月くらいは、ちょっと自分でもおかしいなという感じになりました。病む一歩前、家に帰っても笑顔が少なくなっていましたね。子どもたちにこういう姿を見せたら、仕事って面白くないと思わせるような気がして、もっと仕事って楽しいという姿を見せたくて、たまたまご縁があった元上司の会社に入りました。
Uターンを決断するきっかけ
吉田:その次がここ(安芸高田市)ですね。
有政:そうです。いまここに帰ってきて6年が経ちます。
吉田:最終的にこちらに戻ってくるという決断をしたというのはどうしてですか?
有政:一番大きかったのは、自分のやりたいことが決まったということですね。自分が帰る3年前には妻と子どもはこちらに帰しました。下の子どもが小学校に上がるタイミングで、古くて隙間だらけの激寒の実家に先に帰していました(笑) 実は、実家の横に家を新築することを決めていて、子どもたちにも家を作るプロセスをみてほしいと思って早目に帰しました。
吉田:それは間近ではめったに見られませんね。
有政:めったに見られないし、“ここが自分の家だ”という思いを子どもたちにも持ってもらえるように。
吉田:有政さん自身は、ここに何歳までいらっしゃったんですか?
有政:12歳までです。中学・高校は広島市内に下宿していました。市内にいると、いろんな楽しいことに流されてしまいましたが、小学生のときそこそこ成績が良かったので親が勘違いしちゃって越境入学しました。父親が「羽ばたけ、羽ばたけ」ってよく口癖で言っていて、「こんな田舎におらずに」ということですね。その第一弾として、市内のほうに住んで、「頑張りんさい」ということだったと思います。
吉田:有政さんは10代や20代の頃、どんな生き方をしようと思ってましたか?
有政:親父がここで会社をやっていて、いつか戻ってやらなければいけんなとは思っていました。自分は50歳くらいまでに大儲けして、自分の財産を使いながら、損得なしで子どもの体験教育をしようと思っていたので、50歳くらいで帰ろうかと思ってはいました。
その意識が変わったのは、2008年のリーマンショックのときです。当時、大手銀行から超エリートの人たちが転職相談に来ました。こんな経験をしたという話はしてくれるのですが、経験のあとのその次のことは全然語らないんです。「で、どうすればいいでしょうか?自分にはどの道があるのか?」という質問をしてきます。自分の道を自分で決められないんだなと思いました。
吉田:自分の力でどうにかしたいという意欲がないということですね。
有政:そうですね。そういうことに慣れてないんだろうなと思います。そういう育てられ方をされていない。一流大学に入るための勉強をさせられて、それに対して一生懸命応えてきた人々、だから与えられた課題に対しては一生懸命やれる人が多いが、課題を作ること自体、目標を作ること自体あまり得意じゃない方が多いんだと思います。一方で、高学歴でなくても自分で決めてどんどん前に進んでいく人はいます。この差はなんだろうかと思いました。そういう時代になれば実は後者のほうが強いですね。
吉田:まさに生き抜く力ですね。
有政:これは何かしないとまずいと思いました。それと、新卒の方の就職のカウンセリングとかトレーナーとかコーチとか、そういうものをやっていて感じたことは、就活は頭のいい奴になればなるほど悩むんですよね。「自分の合うところがわかりません」みたいな。そんなの俺だって分からないよ!(笑)
よくよくいろいろと考えていくと、結局根っこは近いんだろうなと思って。仕事に対してポジティブなイメージを持っていなくて、苦行の世界に入るみたいな。ちょっとでも苦行が和らぐところを探すために自己分析をし、会社の分析をし、そこで合致するものを一応納得して入るみたいな話なんでしょうけど、それって不健全だよなと思って。その会社や仕事が合う合わないって入ってみないと分からないですよね。入って頑張れば、仕事も変わるし、面白くもなるし。だから、仕事に対して、ポジティブなイメージだったりとか達成感とか、そういうものをたぶん小さいころから沢山経験するのが大事なんじゃないかと勝手に思い込んじゃいました。ちょうど40歳になるタイミングで、人生のちょうど半分ですね。ここから後半どう生きるかみたいな話であれば、自分のやりたいことに気づいてしまったので、予定より10年前倒しして帰ってきました。全然財産がないのは想定外でしたが(笑)
そんな経緯で、仕事のポジティブなイメージを提供できるような体験の場としての農業体験を柱にして、こっちでやろうと思ったというのが、この場所に帰ってきた真相です。
(後編へ続く)
後編はこちらから。