「おかねのけいさんできません」男性自殺:追い詰めたのは自治会か、私たちか
■自治会の班長をめぐり障害を持った男性自殺
また、辛い出来事が起きてしまいました。
自治会側は強要を否定しています。
自殺した男性は、一人暮らしでした。どんな思いで文書を書き、どんな気持ちを死を選んだのかと想像すると、辛くて仕方がありません。今回訴えたご遺族の方々の無念にも共感できます。
亡くなられた方のご冥福を心よりお祈りいたします。
■責められる自治体
ネットでは、非難轟々(ごうごう)です。一人の人が亡くなり、訴えられているのですから、それも当然でしょう。私も、担当者にもう少し人権意識があればとも思います。
ただ、ことが起きてしまった後に関係者を責めるのは簡単です。この男性自殺を、事前に予測できた人が誰かいたでしょうか。予測ができなくても、そのこと自体は責められません。精神医学や心理学の専門家でも、予測はできなかったかもしれません。
自治会の役割について、そもそも嫌がる人に係りを押し付けるなとの意見もあります。もっともです。積極的に喜んでボランティアで取り組む人がするべきだという意見もあります。その通りです。
そんな自発的な人がいないけれども必要不可欠の仕事だというなら、それは行政の仕事だとの意見もあります。おっしゃる通りでしょう。
時代の変化とともに、自治会や町内会も変化していくべきです。ただ、現場の担当者としては、それを今日はできません。例年通りに作業を進めるのが精一杯で、大規模な改革などとてもできないところが、大多数でしょう。
町内会や自治会の集まりに参加すると、ずいぶん高齢の方々が集まっています。地震の後など、ある自治会長は自転車で高齢単身世帯をまわっていました。本当に頭が下がります。
今回の自治会の責任については、今後裁判で明らかにされていくでしょう。
■ルール、決まりと私たち
自治会役員側の主張によれば、自殺した男性に班長を押し付ける気はなかったといいます。
報道によれば、役員は「どうすれば他の住人の理解を得ながら、男性を班長選出から外せるか模索した」と語っています。その結果、考えられた方法が、男性に何ができるかできないかを書かせる方法だったわけです。
自治会やPTAなどの係り決めに悩むところは多いでしょう。くじで決めたり、順番に引き受けたりします。
ルールや決まりは大切です。でも、ルールや決まりは、人間のためにあります(マルコによる福音書2章)。
くじや順番で決まった班長や係りを断れない、特別扱いできないのが、ルールなのでしょう。それぞれの家庭や個人に事情はありますが、いちいち聞いてはいられません。
それぞれの事情を考慮していたら、ルールが有名無実化し、一部の人だけに負担が集中することもあります。
ただ、多くの場合、実際はケースバイケースでしょう。事情を周囲が理解することもあります。またかたくなに断っている人とトラブルを起こしたくないと思うこともあるでしょう。臨機応変も大切です。
それでも、ネットも含めて世間一般では、普段なら、ルールは守れ、わがままを許すなという声は、以前にも増して増えているように感じます(今回のようなニュースへの反応は自治会側を責める声が多数になりますが)。
担当者も、板挟みで悩みます。
■心の病、障害、見えにくい問題
さらに心の問題は、体の問題以上に、理解されにく問題です。見た目は問題なく、わがままにしか見えないこともあります。しかし本人は非常に苦しんでいます。
知的障害、うつ病、統合失調症、社交不安障害など、様々な精神疾患があります。症状が重ければ、少し話すせば普通ではないとわかるでしょうが、普通の会話では本人の苦しみがわからないこともあります。
社交不安障害などは、ただの内気としか思えないこともありますが、たとえば人前に立つことが辛くて、順番が回ってくるなら転居してしまう人までいます。ただの人見知りとは異なります。
今回のケースに限らず、社会全体に、精神的な障害への理解を深めることが求められています。
さらに、わかりにくいのは、心の病気だけではないでしょう。様々な問題で深刻に悩んでいる人たちがいるわけですが、私たちの目には見えにくくなっています。
■追い詰めたのは誰か
今回自殺した男性が、具体的にどのような人だったのかは、わかりません。一人暮らしをしていたとはいえ、もしかしたら少し話せば班長の仕事は難しいことはすぐにわかったかもしれません。
それでも、他の住人の理解を得るために、何か目に見えるものが必要だったのかもしれません。
もしもみんなが、「そうか、そうか、事情があるんだよな。いいよ、いいよ、みなまで言うな、気にするな」と本人にも役員にも言うとしたら、どうだったでしょうか(舞台は大阪ですから、人情味あふれる関西弁だとどう言うでしょうか)。
もしそうだったら、役員たちも、こんな手間のかかることをする必要はなかったでしょう。
この自治会の住民を責めているのではありません。これは、現代社会の私たちみんなの問題です。
社会福祉と人権意識が高まった現代社会。障害者をあからさまにののしることはありません(除く、ネット)。プライバシーは守られます。
近所に重い障害を持った子がいる。どんな事情かはわからない。毎朝自動車が迎えに来て、どこかへ行って、夕方帰ってくる。近所の人はそこまではわかっていても、それ以上はわからないことも多いでしょう。
もっと軽い障害なら、障害の存在自体がわからないこともあります。高齢者単身世帯も、プライバシーの問題があって、どの家がそうなのか把握していない自治会町内会も多いでしょう。
それは、現代社会では仕方がないのかもしれません。でも、今回の男性のことをみんながわかっていたら、わざわざ文書を書かせる必要はなかったかもしれません。
誰も、悪気はなかったのかもしれません。けれども、悲劇は起きてしまいました。裁判は裁判で、公正な裁判を求めます。ただ、このような問題は、誰かを責めて終わることではなく、私たち一人ひとりが、責任を感じるべき問題だと思うのです。
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昭和の中頃の話です。私の実家のそばに、知的障害のある男の子がいました。お父さんの帰りが遅く、お母さんが息子を銭湯に連れていくのに困ったときがありました。そんなとき、私の父が、私とその子の手を引いて、一緒に銭湯に行きました。まだ、ボランティンなんて言葉もなかった時代の話です。
■孝行糖:江戸時代の知的障害者の商売物語
(「落語で学ぶ障害者への偏見差別と「笑い」の心理学:碓井真史」より)
古典落語『孝行糖』(こうこうとう)。この落語の主人公は、うすぼんやりしている若者、与太郎です(上方では吉兵衛)。なかなか人並みの仕事はできません。ところが、この若者はとても親孝行だったということで、奉行所から報奨金を頂戴します。お奉行様の中には、人情味のある方もいたものです。
さて、長屋のみんなは喜んで、この金で一杯やろうなどとも思うのですが、大家さんは違います。さすが、年の功です。「何言ってんだ。この金で、一人暮らしのこいつの身が立つように小商いでもさせよう」と提案いたします。
そこでみんなで考えて、この報奨金をもとに、与太郎に行商の「飴屋」を始めさせます。みんなで一生懸命面倒をみ、アイデアを出し、飴を「孝行糖」と名づけ、与太郎に楽器を持たせ珍妙なかっこうをさせて面白おかしい売り声と踊りを教えます。
与太郎は、毎日毎日商いに励みます。「孝行糖、孝行糖」と売り歩く与太郎の飴は、いつか評判になり、この飴を子供に食べさせると親孝行になるという評判と共に、商売は大繁盛したのでございました。
ところが、あるお屋敷の前を通りかかったとき。あまりに珍妙でうるさかったために、門番に叱られてしまいます。上手に弁解できれば良いのですが、与太郎にはそんな器用さはなく、むしろ面白おかしいかけ合いが始まってしまいます。とうとう怒った門番は、六尺棒で与太郎のことをポカ、ポカ!
そこへ、与太郎のことを知る人が現れて事情を説明し、門番を止めてくれます。そして与太郎をいたわり、
「どれ、どこを殴られたか言ってみろ」
すると飴売りの与太郎は、泣きながら体を指差して、
「こぉこぉとぉ(孝行糖=ここと)、こぉこぉとぉ(孝行糖=ここと)……」。
お後がよろしいようで。
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落語の世界では、与太郎が馬鹿にされますが、排除されず、無関心にならず、みんなで支えています。現代でも、地域によっては、知的障害者や認知症患者を地域のみんなでで支えているところはあると聞いています。