刑務所は一般の人でも見学できますよ
■刑務所見学(参観)は一般の人でも可能です
現在の刑罰制度の中では、犯罪の認定と刑の宣告は公開の場で行われますが、刑罰の実際の執行が一般の人の目に触れることはまずありません。しかし、最近、法務省はガチガチの刑罰非公開主義を緩め、できるだけ矯正処遇の現場を社会に積極的に公開するよう、各刑務所に通知を出しています。詳しいことは直接それぞれの施設に問い合わせる必要があると思いますが、矯正保護関係の団体が参観者を募集している場合もありますし、各刑務所の矯正展(刑務作業製品の即売会)で中を見学できる場合もあります。
刑務所は、ある意味では異常な世界です。異常な世界では、それを管理するための異常なルールが設定されやすくなります。刑務所を社会に積極的に開くことは、その異常性を少しでも軽減する効果があるのではないかと思います。国民が司法に積極的に参加する流れの中で、実際に人が何を裁き、何をどのように罰しているのかについて、機会があれば見ておくことは有益だろうと思います。
■細切れの時間を過ごすこと
刑務所の門をくぐると、まずその秩序整然たる空気に驚きます。刑罰執行という峻厳な場ですから当然のことなのですが、人為的に作出された秩序とは、裏返せば管理を意味します。そこでは、受刑者の服装や態度はもちろんのこと、寝具のたたみ方、私物の置き方、入浴の方法、あるいは食事や排泄、睡眠といった最も人間的な行為そのものについて、要するに、24時間が細かく分断され、その細切れの時間を受刑者たちは決められた規則に従って過ごすことを強制されるのです。
およそ人の経験というものには、つねに余分なものがつきまとってくるものですが、それがその時はうまく心の中で整理できないものであることが多く、しかしそれだからこそ個々の経験が、後から主体的な人生という有意味な時間に転化していくものだと思います。ところが、受刑の経験というものは、そのような豊かなもの一切を排除するかのようであって、刑務所における日常生活で細切れにされた時間は、まるでそれ自体充足的で自己完結的であるかのように映ります。
■懲(こ)らしめの先にあるものを
懲役刑や禁錮刑などの自由刑とは、いうまでもなく身体を拘束し、自由を制約する刑罰です。犯罪によって被害者や社会に被害を与えたことを懲らしめること、つまり、受刑者の行動を一定の枠にはめ込み、自由の拘束という身体的な苦痛を通じて受刑者に精神的苦痛を与えることこそが、刑罰制度の中心的な目的と考えられているのです。
しかし、刑罰を執行する過程で、受刑者の心に直接訴えかけて、性格を矯正し、将来犯罪とは無縁の生活を送ることができるように働きかけることも刑務所の重要な目的の一つです。懲らしめという時間を最大限有効に活用することは、むしろ期待されていることでもあります。十分であるとは決していえませんが、受刑者に学習の機会を提供したり、職業訓練を実施するなど、限られた予算と人員で、受刑者の社会復帰のために多くの人たちが努力している場面を見るのも、国民として有益な体験であると思います。
■関係から吐き出されるもの
私たちは、たとえば「こんな暮らしをしたい」とか、「こんな仕事をしたい」いったような、さまざまな願望を抱えて生きる存在です。しかし、その願望を実現する機会・方法は、必ずしも万人平等に与えられているものではないから、そこに摩擦の生まれる隙間もできます。多くの犯罪は、このような隙間で生じているものではないでしょうか。
哲学者の中村雄二郎氏は、「悪とは関係の解体である」と述べられました*。私たちは、家族の関係、友達の関係、男女の関係、仕事の関係など、何層にも重なり交差しあった複雑な関係性の中で生きています。その関係性をみずから破壊する場合もあるでしょうし、関係性がぎくしゃくして、その軋轢(あつれき)に苦しみ、傷つき、もがき、人を傷つける場合もあるでしょう。犯罪とは、人間の行為をさまざまな関係性の中で不断に意味づけつづける、社会というシステムからはじき出されたものかもしれません。刑務所という刑罰執行の場で見えるものは、この崩れた関係性を修復するために、受刑者自身を含めた多くの人びとが努力する姿だと思います。