なぜ山口組元最高幹部の裁判は17年も続いたのか 共謀認定の難しさと繰り返された審理差戻し
配下組員に実包入りのけん銃を所持させたとして、銃刀法違反の共謀で起訴された山口組元最高幹部(80歳)が病死した。17年続いた裁判も打ち切りとなる。なぜ審理に長期間を要したのか。事件を振り返ってみたい。
【事件に至る経緯】
1996年7月、京都府内の理髪店で、五代目山口組中野会の中野太郎会長が四代目会津小鉄会系組員に銃撃された。両組織の4年にわたる抗争が背景にあった。
中野会長は散髪中だったが、ボディガード役の配下組員がけん銃で応戦して銃撃犯を射殺した結果、何とか無傷で済んだ。
これに対し、事態の早期沈静化を図ろうとした山口組ナンバー2の宅見勝若頭は、会津小鉄会側の謝罪を受け入れ、和解した。
この手打ちは事件の当事者で山口組若頭補佐という要職にあった中野会長抜きで行われたため、「ケンカ太郎」の異名を持つ中野会長や「武闘派」と言われた中野会組員らの怒りを買った。
中野会内では、宅見若頭の暗殺に向け、1997年7月に東京と大阪でそれぞれ偵察・襲撃部隊が結成されるほどだった。
そうした中の1997年8月28日、神戸市内のホテルのティーラウンジで、宅見若頭が中野会系組員に銃撃され、射殺された。その際、隣のテーブルにいた無関係の一般人も流れ弾で負傷し、6日後に死亡した。
山口組は直ちに中野会長を破門した上、一般人の巻き添えをも踏まえ、より重い絶縁とした。復縁の可能性がないので、組織を解散して極道をやめる、というのが任侠社会の掟だった。
しかし、中野会長は処分に納得できないとして中野会を解散せず、独立組織として存続させた。
すると、山口組関係者による中野会関係先への発砲事件が頻発し、同会関係者が射殺される事件まで発生した。
他方、山口組執行部内で中野会長の絶縁処分を推し進めたのは、山口組若頭補佐だった弘道会の司忍会長(現六代目山口組組長)と芳菱会の瀧澤孝総長だとされていた。
そこで、今度はこの2人が中野会から報復措置を受け、同会組員らに銃撃される可能性が極めて高いと見られていた。
【事件の状況】
今回の事件は、そうした緊迫下にあった1997年9月20日のできごとだ。
2人はそれぞれの組の配下組員らとともに前日の9月19日に関西入りし、大阪市内のホテルに宿泊していた。神戸市内の山口組総本部で行われる定例幹部会に出席するためだった。
事件当日の午前10時40分ころ、2人はボディガード役の配下組員らとともにエレベーターでホテル1階に降り、彼らに守られながらエントランスに向かってロビーを進んだ。そこには、同じくボディガード役である複数の配下組員が潜んでいた。
これらボディガード役の配下組員の中には、実包入りのけん銃を隠し持った者もいた。
事前に宿泊情報を得ていた大阪府警は、一斉に職務質問をかけ、彼らをけん銃所持の現行犯で逮捕した。
その後、彼らとの共謀の容疑で1997年11月に司会長と瀧澤総長を指名手配し、1998年6月には前者を、2001年7月には後者を、それぞれ逮捕するに至った。
けん銃を所持していた実行犯である各組の配下組員は、いずれも親分である司会長や瀧澤総長らの関与を全面的に否認した。
他方、彼らも「何も知らなかった」と述べ、同様に容疑を全面的に否認した。
結局、けん銃所持に向けた組長と配下組員との間の共謀を裏付ける直接的な証拠は何もない、という状況下で裁判が進められた。
【共謀認定の難しさ】
この点、暴力団による事件である上、命の取り合いという抗争下にあった当時の情勢を踏まえると、両者に共謀が成立することなど常識的に考えて明らかであり、なぜそんなに裁判に時間がかかるのか、と疑問に思う人も多いだろう。
銃撃犯に対する反撃のためにけん銃を所持して身を守ろうと考えるのは親分・子分を問わず当然かつ共通の認識ではないかと見られるからだ。
しかし、たとえ暴力団関係者であっても、「疑わしきは罰せず」という刑事司法の大原則を曲げることまではできない。
また、刑法は「二人以上共同して犯罪を実行した者は、すべて正犯とする」(60条)と規定しているものの、単に共謀したのみで全く実行に関与していない者までこの規定で処罰できるのか、できるとすればその根拠や要件は何なのか、今回のケースがそうした要件を充たすと言えるのか、といった難しい問題もあった。
そこで、彼らの裁判では、実際にけん銃を所持していた各組の配下組員らとの間で、未必的・黙示的な共謀が認められるか否かが正面から争われた。
検察側は、有罪立証に向け、先ほど挙げた抗争事件の情勢や事件に至る関係者の足取り、各組織の態勢など、細かな間接事実を一つ一つ積み上げていったが、刑事事件のプロ中のプロで精鋭ぞろいの弁護団からはことごとく異議が差し挟まれた。
結局、間接事実のどこに重点を置いて事件を見るかで、裁判所の有罪・無罪の結論が分かれた。
具体的には、先行した司会長の場合、次のとおりだった。
1998年 起訴
2001年 一審・大阪地裁:無罪
2004年 控訴審・大阪高裁:懲役6年の実刑(求刑は懲役10年)
2005年 上告審・最高裁:高裁の結論が維持され、有罪確定
なお、司会長は、その間の2005年7月に六代目山口組トップに就任し、その年の12月から2011年4月まで府中刑務所などで服役した後、満期出所して現在に至っている。
【繰り返された審理差戻し】
一方、瀧澤総長の場合、次のとおりだった。
2001年 起訴
2004年 一審・大阪地裁:無罪
2006年 控訴審・大阪高裁:検察側の控訴を棄却(要するに無罪)
2009年 上告審・最高裁:一審・控訴審判決を破棄し、審理を一審大阪地裁に差戻し
最高裁は、地裁・高裁の判決に対し、様々な理由を挙げた上で、間接事実の認定や評価などを誤り、重大な事実誤認をした疑いがあるので、破棄しなければ著しく正義に反する、とした(詳しくは判決文を参照)。
要するに、有罪に傾くべき事件だから、一審から慎重に裁判をやり直せ、というのが最高裁の意向だったわけだ。
この間の2008年、瀧澤総長は六代目山口組の顧問に就任し、執行部から退いた。
ところが、この差戻し後も、次のとおり裁判は更に混迷を極め、異例の展開を見せた。
2011年 一審・大阪地裁:無罪(新たに証人尋問を行うなどした上で、上告審当時とは証拠関係が異なるとした)
2013年 控訴審・大阪高裁:一審判決を破棄し、審理を地裁に差戻し
2015年 上告審・最高裁:高裁の判断を是認し、審理は振出しへ
この差戻し後、2017年3月に至り、ようやく一審・大阪地裁は、検察側の懲役10年という求刑に対し、懲役6年の実刑判決を言い渡した。
その後、大阪高裁で審理が続き、2018年5月9日が判決言渡しの予定だったが、被告人の病状悪化を理由に延期されていた。
奇しくも、その同日、肝硬変で病死するに至った(享年80歳)。
【「東高西低」の影響?】
検察では、こうした裁判所の迷走は「東高西低」という刑事裁判の実務を如実にあらわしているのではないか、とも言われてきた。
あくまで一般論であり、肌感覚に近いが、東京の裁判所に比べ、大阪の裁判所の方が量刑が低く、被告人に甘い判決が多いとか、東京の裁判所は治安維持の意向が強い、などと見られてきたからだ。
今回の事件当時に目を向けても、1997年12月には、被告人らと同じく五代目山口組で若頭補佐を務めていた三代目山健組の桑田兼吉組長が、東京六本木で警視庁の検問を受けた際、けん銃所持の共謀容疑で現行犯逮捕されている。
桑田組長の乗る車ではなく、後に続いていたボディガード役の配下組員の車からけん銃が発見されたという事件だ。
配下組員はもちろん、桑田組長もその関与や認識を全面的に否認しており、大阪の事件と同じく、親分・子分間の共謀を裏付ける直接的な証拠など何もない状況だった。
やはり検察側としては、先ほど挙げた抗争事件の情勢など、間接事実の積み上げで有罪立証をせざるを得なかった。
しかし、桑田組長の裁判は、事案の中身や証拠関係などが大阪の事件とやや趣を異にするとは言え、次のような経過をたどった。
1998年 起訴
2000年 一審・東京地裁:懲役7年の実刑(求刑は懲役10年)
2001年 控訴審・東京高裁:桑田組長側の控訴を棄却(要するに有罪)
2003年 上告審・最高裁:高裁の結論が維持され、有罪確定
2004年 服役
2007年 重病のため刑の執行が停止され、釈放後に入院したが、病死
特筆すべきは、桑田組長の持病の悪化で勾留が一時的に停止されたことはあったものの、東京の裁判所は最後の最後まで保釈を許可しなかった、という点だ。
一方、大阪地裁は、1999年に司会長を保釈保証金10億円で、2003年に瀧澤総長を同12億円で、それぞれ保釈している。
これもまた、検察では「東高西低」のあらわれだと言われていた。
ところで、刑事裁判のルールを定めた刑事訴訟法では、被告人が死亡した場合、裁判所はその被告人に対する公訴を棄却しなければならないとされている。
紆余曲折を経た裁判は、事件から21年、起訴から17年を経て、近く打ち切りによりその幕を閉じることとなる。(了)