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「ジャズな人」草彅剛が『ブギウギ』で体現するジャズの精神

てれびのスキマライター。テレビっ子
草彅剛(写真:つのだよしお/アフロ)

やっとジャズができる!

朝ドラ『ブギウギ』で草彅剛演じる羽鳥善一は嬉しそうに言った。

羽鳥は服部良一がモデル。笠置シヅ子をモデルとするヒロイン・福来スズ子と出会ったことで和製ジャズを開拓していくこととなる。

羽鳥がスズ子に最初に与えた曲が「ラッパと娘」。

彼女とのマンツーマンレッスンでは「まあ、好きに歌ってごらん。福来くんが好きなように歌うのが一番いいんだ」と笑顔で語りつつも「違う」「違う」と何度も何度も歌わせる。

何だか聴いていてあまり楽しくないぞ? ジャズは楽しくなくちゃ!

福来くんは今歌っていて楽しかったかい? ワクワクした?

飄々としたまま厳しさを体現する様はまさに「笑顔の鬼」。

草彅剛でしか出せない空気だ。

やがてスズ子は羽鳥の要求に応え、見事にスウィングした「ラッパと娘」を披露するのだ。

趣里はもちろん、指揮をする草彅剛も全身で楽しさを表現する圧巻のライブパフォーマンス。本当に草彅にとって羽鳥役はハマり役だと感じる。それは一体なぜだろうか。

ジャズの伝来

その前に、そもそもジャズはどのように日本で流行したのか、その歴史を振り返ってみたい。

そもそもジャズは19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカのニューオリンズを拠点にアフリカ系アメリカ人の黒人の手によって生まれた音楽だ。

1917年2月26日、ニューヨークのスタジオで録音されたのが、オリジナル・デキシーランド・ジャズ・バンド(O.D.J.B.)による「馬車屋のブルース」。これが歴史上初めて「ジャズ」と銘打ったレコードだという。このバンドメンバーは白人。黒人のローカル音楽だったジャズがアメリカ全土、白人にも広がり認知された象徴的な年といえるだろう。

そのジャズが日本に伝わったのが1920年頃だと言われている。

20年代初頭には、宝塚歌劇団のバイオリニスト・井田一郎を中心とした日本初のプロジャズバンド「ラフィング・スターズ」が結成された。浅草オペラで活躍していた二村定一が独自の唱法でジャズを歌い、1928年には「青空(マイ・ブルー・ヘブン)」を発表。これが日本初のジャズレコードとされている。

同じく浅草オペラ出身の「エノケン」こと榎本健一も日本流ジャズソングを歌うようになった(※1)。

「青空」が発売されヒットした翌1929年には映画『東京行進曲』が公開。その主題歌「東京行進曲」は、ジャズではないものの歌詞に「ジャズで踊って リキュルで更けて」という一節があることから、日本人の「ジャズ」というジャンルの認知度が飛躍的に上がっていった。

その年、本郷赤門前に「ブラックバード」、新橋に「デュエット」という日本初といわれるジャズ喫茶が相次いで誕生。このことから、日本で最初のジャズブームは1929年に始まったとも言われている(※2)。

1930年代には、京橋の「銀座ダンスホール」や赤坂の「フロリダ」などダンスホールが次々と生まれ、ジャズの拠点となった。つまり、ジャズは当時、陽気なダンスミュージックとして認識されていたのだ(※2)。

この頃、ディック・ミネが「ダイナ」を歌い大ヒットさせ、かまやつひろしの父であるティーブ・釜萢やベティ稲田といったアメリカ生まれの日系人歌手が台頭していった(※1)。

しかし、1938年頃になると風紀上の理由によりダンスホールに対する規制が厳しくなり、「学生狩り」と呼ばれる弾圧が行われたという(※3)。1940年10月末には、ダンスホールはすべて閉鎖となってしまった。

そこにあぶれたバンドマンの受け皿となったのが、1938年から新宿第一劇場で始まっていた「軽音楽大会」だった。当時、戦争準備のため軍需産業が発達し、田舎から若者が大挙して上京してきていた。そういった若者たち向けの娯楽として、こうした軽音楽やレビューが盛んになっていった。

同じ頃、梅丸楽劇団のモデルである松竹楽劇団や宝塚歌劇団のレビューにもジャズを取り入れたものが多くなっていく。

さらには、吉本や新興演芸部のショーも落語や漫才に始まり、後半にはバンド演奏や軽音楽が披露されていた。「あきれたぼういず」もそこで「ジャズ漫才」などと呼ばれる演芸を披露していったのだ。

30年代半ば、アメリカでスウィング・ジャズが大流行すると、日本にも伝播。

服部良一と笠置シヅ子が出会ったのは1938年。やがて笠置は「スウィングの女王」と呼ばれるようになるのだ。1941年には「軽音楽大会」が最盛期を迎え、「日本のスウィング・エイジの最高峰」の時代となった(※3)。

だが、その年の12月、太平洋戦争が開戦する。それでも当初は「国策ジャズ」と呼ばれる日本的な軽音楽を作ろうという政策がとられ、政府主催の軽音楽大会なども開かれたが、戦況の悪化とともにジャズは「敵性音楽」として規制され、1944年には完全に禁止されていく。

ドラマでも今後、そうした苦境から、戦後、ジャズが復活し服部良一とのコンビで彼女が「ブギの女王」となる過程が描かれていくのだろう。

ジャズな人

草彅剛とジャズといえば、思い出されるのはタモリが彼を「ジャズな人」と評したことだ。

それは2015年5月10日放送の『ヨルタモリ』(フジテレビ)でのこと。この放送以前からタモリは「ジャズな人」を最大の褒め言葉として使っていた。「音楽がなくてもジャズな人はジャズなのよ。スウィングする人はスウィングしてるのよ」と。

この日、ゲストに訪れたのが草彅剛。レギュラーとして出演していた能町みね子が「草彅さんはジャズですか?」とタモリに尋ねると、タモリは「ジャズだね」と大きく肯いた。

タモリ: ジャズだね。ジャズな人って何かって言うと、向上心がない人のこと

能町: ないからジャズなんですね(笑)。

タモリ: 誤解されちゃ困るけど、向上心がある人は、今日が明日のためにあるんだよ。向上心がない人は、今日が今日のためにあるんだよ。これが「ジャズの人」よね。

草彅: 僕、向上心ないですかね?

タモリ: 向上心ないねえ。

草彅: それ逆にショックだよ(笑)。

タモリ: 向上心=邪念ってことだよね。

草彅: ああ、そうですか。よく人って夢のためにがんばるっていうじゃないですか。

タモリ: 夢があるようじゃ、人間終わりだね。

草彅: 僕もそれどうなのって思うんですよ。夢って何なの?って。思いません? それを美徳としてる感じがあるじゃないですか。「夢に向かってがんばろうぜ!」みたいな。じゃあ、夢が叶っちゃったらどうするの?って話で。

能町: 今まで夢とかなかったですか?

草彅: だから、夢ってわからないんですよね。小さい時からこの仕事をしているんで、ある意味早く叶ってしまったっていうのもあると思うんですよ。でも夢のためにがんばって目標立てて、毎日それだけのために生きていくって……。

タモリ: そう。夢が達成される前の区間はまったく意味がない、つまんない世界になる。これが向上心のある人の生き方なんだよね。悲劇的な生き方。夢が達成されなかったらどうなるんだ?ってことだよね。U-zhaanさんとかこう(タブラを)やるのは、夢じゃないんだよ。やってるだけの話だよね。好きでやっててこうなってるだけの話で。

U-zhaan: いつかどうなりたいと思ってやってたことはあんまりないですね。

タモリ: うん。好きでこれ面白いなってやってる人がみんなこういう風になってるんだよ。そういう人たちが夢を持ってやってたかっていうと、そうじゃないよね。それがジャズか、ジャズじゃないかの差。

宮沢りえ: 今を濃厚に生きるかってことですか?

タモリ: そう。

今を濃厚に楽しもうとするジャズの精神を体現した羽鳥善一を、そんな「ジャズな人」草彅剛が演じれば、ハマらないわけがない。これ以上ないほどのベストキャスティングだ。

(参考文献)

※1 西田浩:著『秋吉敏子と渡辺貞夫』(新潮新書)

※2 マイク・モラスキー:著『戦後日本のジャズ文化』(岩波現代文庫)

※3 瀬川昌久・大谷能生:著『日本ジャズの誕生』(青土社)

(関連)

『カムカムエヴリバディ』ジョーと戦後ジャズ

ライター。テレビっ子

現在『水道橋博士のメルマ旬報』『日刊サイゾー』『週刊SPA!』『日刊ゲンダイ』などにテレビに関するコラムを連載中。著書に戸部田誠名義で『タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?』(イースト・プレス)、『有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか 絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』、『コントに捧げた内村光良の怒り 続・絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』(コア新書)、『1989年のテレビっ子』(双葉社)、『笑福亭鶴瓶論』(新潮社)など。共著で『大人のSMAP論』がある。

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