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「感謝しかない」―。原口文仁は亡きお父さんに、長く長くプロ野球選手として活躍を届ける

土井麻由実フリーアナウンサー、フリーライター
打席と同じく打撃練習でも精神統一し、バットを見つめてフーッと息を吐く原口文仁

■原口文仁選手のお父さん

 サンケイスポーツで連載しているコラム「SMILE TIGERS」で、今月は「父の日」にちなんで原口文仁選手のお父さんの話を書いたが、コラムに収まりきらないくらい多くの心温まる話をしてくれたので、こちらでも紹介したい。

(SMILE TIGERS⇒「天国の父に『もっと喜んでもらえるように』阪神・原口文仁はきょうもグラウンドに立つ」」)

 今月のテーマを「父の日」にしようと決めたとき、真っ先に原口選手の顔が浮かんだ。ルーキーイヤーの春季キャンプで父・秀一さんをお見かけした。埼玉県から、高知県は安芸のキャンプ地まではるばる来られて、息子が汗を流す姿を熱心にご覧になっていた、あのときの優しい目が印象に残っていたからだ。

 しかし昨年逝去されたこともあり、「話すのがつらかったらいいよ」とのことわりを入れて取材をお願したところ、原口選手は「いいよ、いいよ」と快く引き受けてくれた。

■小学4年生から野球を始めた文仁少年

 お父さんとの思い出話は、話せば話すほどどんどん溢れ出てきた。最初は小学生のころの話からだ。

 「1年生から野球やっている友だちの影響で、僕は4年生から入ったんだけど、昔はおやじに見に来られるのが本当に嫌で…。なんでかわからないけど、小学校も中学校も、おやじが来るのが嫌だった。今思えば、ひどいことしたなぁ」。

 そう言って、原口選手は申し訳なさそうな顔をする。

 お父さんも高校まで野球をされていたそうだが、だからといって文仁少年にああしろこうしろと言うわけではなかった。おそらく年ごろの男の子特有の“照れくささ”だったのだろう。「そう、恥ずかしかった」と悔いる原口選手だが、きっとそれもお父さんは理解されていたに違いない。

 4年生で初めて出場した試合では、ライトに就いた。「いきなりスリーベース打って、でもサードでヘッドスライディングしてアウトだった記憶がある(笑)」と今でも鮮明に覚えている。

 5年生になるとキャッチャーがやりたいと希望し、お母さんからコーチに伝えてもらった。

 「なんでだったのかなぁ…阿部慎之助読売ジャイアンツ)さんがちょうど出始めたくらいだったっていうのもあると思う。キャッチャーやりたいってね、なぜかなったね」。

 阿部選手のファンになってキャッチャーがやりたくなったのか、キャッチャーがやりたいから阿部選手のファンになったのか、「そこんとこは、よくわかんない」が、小学生があまりやりたがらないポジションを志願した。

■父子でプロ野球観戦へ

 野球を始めてから、お父さんとはよく球場に出かけたそうだ。「初めて行ったのは神宮球場かな。東京ドームにも行ったなぁ。2人でよく野球を見にいったね、電車に乗って」となつかしそうに話す。

 「すごかったね。なんだろう…ネット越しに見るプロ野球選手の姿っていうのは、今でも覚えているね。それで、プロ野球選手になりたいと思っていたんだよね」。

 その原体験は、文仁少年を野球にのめり込ませた。

 「最初はね、松井秀喜さんが大好きだったの」と明かし、話が少し脱線する。

 「それでなんで俺、左バッターになんなかったんかなっていう後悔があるんだよね」。たしかに松井選手、阿部選手が好きだったら、左で真似して打ってもおかしくない。

 しかし自ら左で打とうとか、指導者から左をやってみないかとの助言など、「まったくなかった」という。きっと当時、右でかなり好成績を挙げていたのだろう。

 「いやいや、そんなことはないよ。でも、左でやっとけばよかったなって、今ではちょっと後悔」と、原口選手の口調は真剣味を帯びてくる。「体の構造的にね、左のほうがいいみたい。蹴るのも左だしね、強いのは。軸足もね」と、プロになって解析して判明したようだ。

 たしかに、もし子どものころに左に転向していたら、どうなっていたのか…それは気になる。

■「物にはこだわれ」との教え

 「勉強しろも言われなかったし、好きなことをたくさんやらせてもらったなぁ…」。思い起こすと感謝しかない。

 「中学に上がるときも、『いいグラブがないとあかんやろ』って言って、東京のミズノの本店に一緒にオーダーしに行って、キャッチャーミットを作ってもらった」。

 「物にはこだわれ」と教えてくれたのも、お父さんだった。それが今でも記憶に残っているという。

 中学では「うまい子がいたから」とファーストに就き、帝京高校に入っても最初は外野や内野を守っていた。

 「でも、1年生の冬に自分たちの代のキャッチャーの子が全員ケガとかで、『やれるヤツいるか』って、経験者の僕がやることになって…。なんか運命的なものがあるかなと思ったね」

 お父さんがオーダーで作ってくれたキャッチャーミットが活躍してくれた。

■送り迎えと練習の手伝い

 高校時代は「いつも送り迎えをしてくれたねぇ。母ちゃんもだけど」と、駅までの送り迎えをしてもらうのが日課だった。ほぼ朝は始発、夜は最終だ。

 「『これでなんか買っていけ』って言って、お小遣いをくれたりしてね。そういうの、ほんとにありがたかったなぁ」。

 帰宅すると練習にも付き合ってくれる。お父さんも仕事で疲れているだろうに、「ティーをあげてくれたり、右肩が壊れたからって左で投げてくれたり、ね」と、どれほど自分のために尽くしてくれたことだろう。

 「そうそう」と、原口選手が思い出し笑いをする。「ボールが頭に当たったりして(笑)」と言うのだ。

 「一緒に練習していて、なかなかうまくいかないから『えーい!くそ!おやじに当てたる!』みたいな感じで打ったら、ほんとに当たっちゃって…(笑)」。

 センター返しのいい打球だった。「そうやって協力してくれたから今がある。プロにもなれたし、甲子園にも行けたしね」と、たいせつな宝ものとなった時間を噛みしめる。

■息子の活躍が、父は楽しみだった

 お父さんとは「プロ野球選手になりたいというような話は、あんましなかったね。意外とね、しなかったんだよね」と振り返るが、お父さんはきっと息子の思いはわかっておられただろう。実際にプロ入りしたときには、「すごく喜んでくれた」と目を細める。

 「なかなか今みたいに(ファームの試合の)ネット配信とか、テレビ中継で頻繁にやるっていうのがなかったんで。キャンプだったらちょうど真ん中のクールに放送が1、2回あったのを見て喜んでくれたりとか、シーズン中だとたまにあるCS放送の中継をみんなで見てくれたりとか…。最初のころは家にケーブルテレビを繋いでなかったんで、小学校時代のコーチの家に行って、みんなで一緒にお酒を飲みながら見ていたっていうのを、後から聞いた。そういうのも楽しかったみたい。試合もいっぱい見に来てくれたしね。新潟にも車でねぇ」。

 原口選手の活躍は、お父さんにとって一番の楽しみだった。

 1軍キャンプのメンバーに入ったときは、沖縄まで駆けつけてくれた。

 「その年(2018年)に倒れちゃって、それから入院とか施設とかで、そこからはもう野球には来られなかった。テレビも見られなかったんじゃないかな。新聞くらいで」。

 だが2019年の結婚式には、ヘルパーさんに介助してもらいながら参列してくれた。そして帰省すれば必ずに会いに行き、長女もその手に抱っこしてもらえた。

■コロナがなければ、病気にならなければ…

 ところが、だ。全世界を襲ったコロナ禍によって、肌を触れ合ってのコミュニケーションが遮断された。

 「面会がガラス越しでね。2番目と3番目(の子ども)は抱っこしてもらえなかったのが心残りで…。みんな抱っこしてほしかったなぁ。長女なんて『じぃじに抱っこしてもらったんだよ』って、それを自慢の一つにして下の子たちに言うしね。それはね、残念だったなっていうのは思うね」。

 コロナがなければ、そもそも病気にならなかったら…と、何度思ったことか。 「ちょうど1軍に上がって、やっと出始めたとこだったんでね。もっと野球を見にきてもらえたのに…」。お父さんの目の前で躍動する姿を見せたかった。

 「これから一緒にうまい酒も飲めるだろうと思っていた。プロに入ってこっち(関西)に来ちゃったから、20歳になってからもそういうのがあんまりなかったし。ゆっくりいろんなこと話して、教えてもらってとか、できなかったのがほんと残念」。

 だからこそ、自身が父になった今、思うことがある。

 「やっぱ子どもたちにはね、何か記憶に残るようなこととかしてあげたいとは思う。今は野球でなかなか忙しいけど…」。

 球場で、またはテレビの前で、いつも応援してくれている子どもさんたちには、パパの活躍はしっかり焼き付いていることだろう。

■プロ野球選手として何か一つ大きいことを達成できたことを伝えられた

 自身が患った大腸がんのことは、「直接は言っていない。言わなかったね。もしかしたら人づてに聞いているかもしれないけど…」と、心配はかけたくなかった。「いつも会いに行ったら、『頑張ってくるわ』って言って帰ってね」と、父の前では常に元気な息子でいたかった。

 「そうそう、優勝が決まる週の、ちょうど前の休みに一回帰って会って。『今週優勝したらビールかけやから、頑張ってくるわ』って声かけたら、意識はあるんだけどもうしゃべれなくて…。『うんうん』ってね」。

 握手をして別れた。

 リーグ優勝をしたとき、看護師さんが「優勝しましたよ」と伝えてくれると、お父さんは涙を流されたそうだ。

 「あぁ、よかったなと思ってね、優勝したことを伝えられて。プロ野球選手として何か一つ大きいことを達成できたことがね。それをちゃんと伝えられてね。ほんと、それはよかったねぇ」。

 その10日後、お父さんは永眠された。

 「本当に感謝しかない」というお父さんとは、もっともっといろんな話がしたかった。「ありがとう」もたくさん伝えたかったし、恩返しもしたかった。でもきっと今、一番近くで見てくれている。

 「これからもプロ野球生活を少しでも長く続けて、もっと喜んでもらえるように頑張っていきたい」。

 原口選手はそう誓っていた。

これからも活躍をお父さんに見てもらう
これからも活躍をお父さんに見てもらう

 甲子園球場での試合前練習に向かいながら、「あんまり時間がないから、何日かに分けて話そう」と提案してくれた原口選手。「話していたら、いろんなことを次々思い出しちゃうから、(話すのが)止まらなくなっちゃうよ(笑)」と言って、お父さんのことをいろいろ振り返ってくれた。ときに目を潤ませながら…。

 たいせつな思い出を、ありがとうございました。

(撮影はすべて筆者)

フリーアナウンサー、フリーライター

CS放送「GAORA」「スカイA」の阪神タイガース野球中継番組「Tigersーai」で、ベンチリポーターとして携わったゲームは1000試合近く。2005年の阪神優勝時にはビールかけインタビューも!イベントやパーティーでのプロ野球選手、OBとのトークショーは数100本。サンケイスポーツで阪神タイガース関連のコラム「SMILE♡TIGERS」を連載中。かつては阪神タイガースの公式ホームページや公式携帯サイト、阪神電鉄の機関紙でも執筆。マイクでペンで、硬軟織り交ぜた熱い熱い情報を伝えています!!

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