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NPB初、「アフリカ人選手」誕生。「野球不毛の地」、アフリカと野球の浅からぬ縁

阿佐智ベースボールジャーナリスト
2016年7月には「西アフリカ選抜軍」が来日し、独立リーグなどと試合を行った

 12月1日、広島東洋カープはボルチモア・オリオールズのテイラー・スコット投手と契約を結んだことを発表した。スコットは2011年、カブスから5巡目指名され、アリゾナ州スコッツデールのノートルダム・プレップ高校からプロ入り。2015年シーズン後にリリースされ、翌年は独立リーグのスーシティでシーズンを始めるも、ブリュワーズとの契約にこぎつけ、この年のオフには有望株が集うアリゾナフォールリーグのメンバーに選ばれている。さらに翌年の2017年途中にトレードされたレンジャーズで3Aまで昇格し、今年マリナーズで27歳にしてついにメジャーデビューを飾った。

 彼のデビューは、単なるマイナーリーガーの初昇格ではなく、「アフリカ出身者」のMLB史上初登板ということで話題になった。彼は南アフリカ共和国(南ア)生まれということである。

 ただ注意せねばならないのは、アメリカは出生地主義をとっているため、このことが即座に「MLB初のアフリカ人投手」の誕生とはならないことだ。米兵やアメリカ人ビジネスマンが世界中に散らばっている現状において、父親の仕事の都合上、アメリカ以外の土地で生まれた「アメリカ人」は決して珍しくはない。既報の写真を見てもわかるように彼はいわゆる「白人」で、見た目には「アフリカ」を感じさせることはない。

 調べてみたところ、彼はアメリカの高校を出たものの、それまでは南アで育ったようである。「アフリカ生まれアフリカ育ち」と言っていいだろう。その彼が、日本球界にやってくるということは、彼は「日本初のNPB選手」ということになる。

アフリカと野球の浅からぬ縁

 野球のイメージの全くないアフリカだが、実際、この大陸で盛んなボールゲームはやはりサッカーだ。町を歩けば、そこいらじゅうでストリートサッカーを目にすることができる。しかし、野球が伝来したのは、実はアメリカでこのゲームが誕生してさほど時が経っていない時期である。1888年11月から1889年4月にかけて、元選手の企業家、アルバート・スポルディングがメジャーリーガーを伴って世界ツアーを敢行したのだが、その際、1889年2月、一行は北アフリカ・エジプトを訪問し、ギザのピラミッド前にフィールドをしつらえ、試合を行ったという。その後、同様のツアーが1913年オフにニューヨーク・ジャイアンツ監督のジョン・マグローによって行われ、この際も一行はエジプトに立ち寄った。

 そして、1935年には「アフリカ初のプロ野球選手」が誕生している。1930年代前半、イギリスに3つのプロ野球リーグが立ち上がったのだが、この内のひとつ、北英野球リーグ(North of England Baseball League)で当時イギリス自治領だった南ア出身のベニー・ニューウェンハイズがプレーした記録が残っている。ただし彼は母国で野球をプレーしていたわけではなさそうで、サッカー選手として渡英し、名門リバプールに入団したものの、野球に転向したのだった。当時、プロとは言え、まだまだイギリスの野球のレベルは高くなく、プロ野球と言っても、選手の多くはオフの副業としてプレーしていたサッカー選手だったというイギリスならではの話である。また、名前から察するに、彼はいわゆる黒人ではなく、イギリスの支配が及ぶ前に南アを統治していたオランダ系の地を引いているものと思われる。

アフリカ野球のパワーハウス、南ア

 アフリカ大陸に野球が普及し始めるのはおおむね第二次世界大戦後のことである。とりわけ、英語圏の南部アフリカでは布教でやってきた宣教師などにより現地人の間でも野球がプレーされるようになり、この地域で一番の富裕国である南アにはクラブチームもできた。

 そして、1990年代以降、メジャーリーグの選手獲得網がこの地域にも及ぶようになり、普及活動やスカウト目的のアカデミーも開催されるようになった。2000年には、カンザスシティ・ロイヤルズがメジャーリーグ球団として初めて南ア出身者と選手契約を結んだ。この年ルーキー級でプロデビューしたダーバン出身のバリー・アーミテージは、2006年に始まったWBCの際には、南ア代表の一員としてマウンドに上がり、この年2Aまで昇格している。しかし、2005年にオープン戦には登板したものの、メジャー昇格はならず、翌年独立リーグでのプレーを最後に引退している。

第1回WBCの南ア代表の一員としてプレーしたポール・ルッガース
第1回WBCの南ア代表の一員としてプレーしたポール・ルッガース

 国際大会においては、南アは2000年のシドニー五輪から本格的に参加しているが、先のWBCを含め、その初期においては選手の多くは、父母の代や幼少時に南アを離れた二重国籍者だった。アーミテージとともに数少ないプロ選手として2006年WBCを戦った当時独立リーグでプレーしていたポール・ルッガースは、実はオーストラリア・メルボルン生まれで、2010年に現地プロリーグが復活すると、地元チーム・エーシズに参加している。

 同じく、オーストラリアとの二重国籍者で代表チームの一員としてプレーした経験をもつジャスティン・エラスムスは、南ア最大の都市、ヨハネスブルク生まれだが、幼少時に家族ごとブリスベンに移住、そこで野球に出会い、2007年にレッドソックスとマイナー契約を結び、ルーキー級でプロデビューした2009年のWBCに代表メンバー入りしている。彼が生まれた1990年と言えば、1994年の人種隔離政策・アパルトヘイト廃止を前にして国が混乱していた時期だ。アパルトヘイト廃止は世界中から賞賛を浴びて迎えられたが、その現実は、それまで貧困層を形成していた有色人種の立ち入りが原則禁止されていた主要都市中心部に職を求めた人々が殺到し、世界最悪とも言われる治安の悪さを呼び起こした。いわゆる白人のエラスムス一家は、そういう現実を目の前にして母国を去り、その結果、野球に出会ったのだろう。

オーストラリアリーグのブリスベン・バンディツでプレーする南ア出身のジャスティン・エラスムス
オーストラリアリーグのブリスベン・バンディツでプレーする南ア出身のジャスティン・エラスムス

 

 先述した通り、南アの野球ナショナルチームは在外の南アにゆかりのある選手と南ア人選手の混成チームであることがほとんどだ。それでも、メジャーリーグのスカウト活動などもあり、現地人の競技者も年々増え、代表チームも次第に「自国生産」に近づいてきている。アメリカでプレーする南ア人選手の数は、2008年に4人だったのが、2015年には8人に増えている。

 しかし、道具に金がかかるとあって、この国の野球競技者は白人富裕層が中心だ。先に出てきた「南ア初のマイナーリーガー」、アーミテージも白人である。その意味では、スコットに先んじて「南ア初のメジャーリーガー」となったギフト・ンゴエペは、我々が思い浮かべる典型的なアフリカン、つまり黒人である。母親が野球クラブに住み込みで勤めていたこともあり、幼少時からプレーする機会に恵まれていた彼は、スカウトの目に留まり、ヨーロッパ・アカデミー経由で2008年にピッツバーグ・パイレーツと契約した。そして2017年にアフリカ大陸出身者として最初のメジャーリーガーとしてヒットも放っている。南アはすでに東京五輪への出場の可能性はなくなっているが、ンゴエペは29歳になる今年もアメリカ独立リーグ最高峰のアトランティックリーグでプレーしている。予選からの参加になる次回2021年WBCにも当然参加するだろう。

日本にはすでにアフリカ人プロ野球選手が

日本球界初のアフリカ人「プロ野球選手」、シェパード・シバンダ
日本球界初のアフリカ人「プロ野球選手」、シェパード・シバンダ

 先ほど私はスコットのことを「日本球界初のアフリカ人プロ野球選手」とはせず、「日本初のNPB選手」とした。実は独立リーグにはすでにプロ契約をしたアフリカ出身選手がいるのだ。

 現在、アフリカへの野球普及は、日米のNGOが担っていると言って過言ではない。元々は政府の外郭団体による開発援助であるJICAの青年海外協力隊(日本)やピースコープ(アメリカ)の援助項目の中にスポーツ普及があったのだが、それらの活動の経験者が普及活動継続を試みてNGOを立ち上げることが多い。そういう活動のひとつの成果として「プロ野球選手」誕生は活動継続のためのアピールポイントになる。また、たとえ有望選手がいても現地での育成には限界があり、そこで費用のかかる留学ではなく、滞在費を自活できる独立リーグという選択肢が浮上してきたわけだ。

 このような経緯から誕生した「日本球界初のアフリカ人プロ野球選手」は、シェパード・シバンダだ。アフリカにおけるJICAの野球普及活動が最も早く始まった南部アフリカ・ジンバブエ出身の彼は、2005年オフの四国アイランドリーグのトライアウトに見事合格。2006年から2シーズンを香川オリーブガイナーズで過ごし、2008年にはBCリーグの福井ミラクルエレファンツに移籍して通算33安打だけでなく、ホームランも2本記録している。

 そしてその後、2015年には西アフリカ・ブルキナファソ出身のサンフォ・ラシィナが四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグスで公式戦デビューを果たしている。2013年、16歳で来日し、練習生として受け入れられた彼だったが、当時の実力ではやはり独立リーグでもプレーするのは難しいと判断され選手契約はならなかったのだが、「石の上にも三年」の言葉通り、来日3年目のシーズン最終盤にようやく選手登録にこぎつけ、翌2016年には、「プロ初安打」どころかホームランまで放っている。この年には、サンフォと同郷のザブレ・ジニオがルートインBCリーグの新潟アルビレックスに入団し、1シーズンプレーしている。また、2013年以降関西独立リーグとその後継リーグであるベースボールファーストリーグ(現2代目関西独立リーグ)が、東アフリカの内陸国、ウガンダから選手を何人か受け入れている。ウガンダはアメリカの団体の普及活動も盛んな国で、一部からは「アフリカのドミニカ」になるのではないかとも言われている。

2019年シーズンを日本で送った唯一のアフリカン、ブルキナファソ出身のサンフォ(高知ファイティングドッグス)
2019年シーズンを日本で送った唯一のアフリカン、ブルキナファソ出身のサンフォ(高知ファイティングドッグス)

 「野球不毛の地」と呼ばれているアフリカだが、世界の野球統括団体であるWBSCはここを「最後のフロンティア」とみなし、その第一回総会を北アフリカのチュニジアで、第二回総会を南部アフリカ・ボツワナで開催している。テイラーの活躍次第では、日本球界の目も今後、アフリカに向いていくかもしれない。

(写真はすべて筆者撮影)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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