日米安保を維持しつつ集団的自衛権を否定することは非現実的である
立憲的改憲とは?
今月4日の朝日新聞デジタルにこんな記事が掲載されていました。
この文章だけでは、「立憲的改憲」なるものの意味は判然としませんが、要はルールを憲法に明記するということのようですから、それ自体には異論のあろうはずもありません。制定以来70年以上も一言一句も改正がされていない憲法ですが、当時の国際情勢、政治状況、社会のあり方や国民生活も大きく変わっているわけですから、実状にあわせて見直すという議論自体は至極真っ当なものと言えるでしょう。
そして憲法改正の範囲として、憲法9条も視野に入れているようです。
このことは、集団的自衛権を認めないということを意味していますが、果たしてそれは妥当なのでしょうか。
集団的自衛権とは
集団的自衛権とは、ある国が武力攻撃を受けたとき、直接攻撃を受けていない第三国が、攻撃された国と協力して共同で防衛することができるものをいい、国連憲章51条で国家固有の権利として認められています。
国連憲章51条
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。(以下略)
ちなみに、国連憲章51条は、ラテンアメリカ諸国の異議申立を受けて規定された、という経緯があります。
第二次世界大戦が終わる直前の1945年3月、ラテンアメリカ諸国はメキシコでチャプルテペック規約を採択し、各国間で将来相互援助条約を締結することについて約束しました。大国に対抗するため、小国で集まって互いに助け合おうというものです。これに対し、国連は、地域的取極・機関の強制行動は国連安保理の決議が必要とする内容(53条)を想定していましたが、これを知ったラテンアメリカ諸国は抗議します。自分たちの相互援助条約によって自分たちを守るために国連安保理の決議が必要となれば、仮に自分たちが武力攻撃を受けた状態であるにもかかわらず安保理決議がなされないことがありうる以上、あまりに不安定な状態に置かれてしまうからです。
そこで、国連憲章51条によって、安保理が実際の対応措置をとるまでの間、個別的自衛権や相互援助条約に基づく集団的自衛権を行使しても構わないという例外が認められたのです。
このように集団的自衛権は、小さな国が集まって他国からの武力攻撃から身を守るために認められたものでした。
個別的自衛権は集団的自衛権より平和なのか
日ごろ私たちは、「日本国憲法は、集団的自衛権の行使を認めず、個別的自衛権のみを認めている」といった言葉を聞くと、どうも「個別的自衛権はより平和的で、集団的自衛権は好戦的なものなのだ」と思ってしまいがちですが、これは完全なる誤りです。こういったものは、日本国内でしか通用しないガラパゴス的言説です。
個別的であろうと集団的であろうと、どちらも自衛権である以上、そこに実質的な差異はありません。むしろ国連憲章51条が規定された経緯をふまえると、集団的自衛権は単独では生存が危うい小国が生き延びるために群れをなして自分たちを防衛するために必要とするものであることがわかります。他方で、集団的自衛権に頼らず個別的自衛権のみで自らを守るという選択をするとなれば、軍事同盟や相互援助条約に頼らないということですから、単独で身を守るために重武装が必要となります。わかりやすい例としては、北大西洋条約機構(NATO)にも加盟せず、永世中立を保っているスイスをイメージするとよいでしょう。
実際に敗戦国である西ドイツは、冷戦の間NATOに基づく集団的自衛権行使のみを認められ、個別的自衛権を単独で行使することを認められませんでした。ソ連に対抗する必要がありつつも、ナチスの再来という悪夢を西側諸国が恐れたためです。ドイツが独自の指揮系統を取り戻したのは、ソ連がドイツから完全撤退した1994年以降のことでした。このことは、個別的自衛権のほうが集団的自衛権よりも抑制を効かせることが難しいということを表しています。
また、NATOもワルシャワ条約機構も集団的自衛権ですが、第二次世界大戦が終結した1945年以降、冷戦が終結した1989年までの間、両条約の加盟国の間に直接の戦争は発生しませんでした。これは、条約加盟国同士で戦争を行うとすれば、第三国が参加してきて思わぬ大戦争に発展するおそれがあるからです。このように集団的自衛権は戦争が起こらないように抑止するための仕組みであるといえます。
ヨーロッパ各国では18世紀くらいから同盟や協商などの合従連衡を繰り返してきましたが、現代においては、軍事のみならず、兵器開発なども共同で行うことによって安全保障における役割やコストを分担しているのが潮流です。個別的自衛権のみに限定し、より多額の防衛費用をかけて武装を充実させ、他国と協力することなく、孤高の道を歩むというのはそう容易いことではないですし、国民の理解も得にくいでしょう。
日米安保は集団的自衛権の行使である
さて、ご承知の通り、日本はアメリカとの間で安全保障条約を締結しています。日米安全保障条約の中核をなす5条・6条では以下のように規定しています。
日米安全保障条約
5条
各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する。(以下略)
6条
日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。(以下略)
つまり、日米安保条約とは、日本が国土の一部を基地として提供する代わりに、日本の施政権下の領域に対する、武力攻撃に対しては日米で共同してこれに対処するという内容のものです。
これは、どうみても軍事同盟であり、集団的自衛権の行使に該当するものです。集団的自衛権とは、戦闘行為に参加することだけではなく、交戦国の一方に基地や資金を提供することもまたその枠組みの範疇なのです。
朝鮮戦争時はまだ日本は占領下にあり主権を回復していませんでしたが、ベトナム戦争では日本国内の嘉手納や横田、岩国や三沢といった米軍基地からフィリピン、グアムを経由して米軍機が出撃しています。日本国内の基地は後方の兵站機能を果たしていたのです。これらももちろん集団的自衛権の行使です。これらの行為が集団的自衛権にあたらないというのは、国際社会では到底通用するものではありません。政府は、「集団的自衛権は保持しているが憲法上行使することができない」といいつつも、実際には戦後一貫して集団的自衛権を行使し続けているというわけです。
このように見ていくと2015年に制定された安保法制によって集団的自衛権が認められるようになりましたが、法整備によって何か現状の変更が行われたというよりも現状に法制度を合わせたというほうが正確ではないかと思います。
日米安保を破棄するのか
上で引用した通り、枝野議員や山尾議員の考える立憲的改憲によれば、憲法9条で自衛権を認めるものの、集団的自衛権は否定し、個別的自衛権のみに限定するとのことです。しかしそうなると、日米安保条約はどうなるのでしょうか。憲法9条の意義を明らかにする改正を行った上で、憲法に抵触する条約であるとして破棄するのでしょうか。
現在の日本の国防費は約5兆円ですが、仮に日米安保を破棄した場合にはどのくらいの防衛費が必要となるのでしょうか。
防衛大学校安全保障学研究会の武田康裕教授と武藤功教授は、日米安保なしでは防衛費は現在の約4-5倍の22兆円から23兆円ほど必要となるだろうと試算しています(『コストを試算!日米同盟解体ー国を守るのにいくらかかるのか』(毎日新聞社))。この試算の妥当性には議論の余地があるでしょうが、いずれにしてもより多くの防衛費が必要となることは間違いないでしょう。
日本は戦後一貫して軽武装戦略をとり、アメリカの庇護の下で平和と安全を享受してきたわけですが、立憲的改憲とやらはこのスキームを大転換してもよいと考えているのでしょうか。
それならそれで、きちんと正面から提言して議論の俎上にのせるべきでしょう。日本の安全保障における大方針ですから、国民的な議論を行うべきです。
このあたりを彼らがどのように考えているかは明らかではありませんが、もしそうではなく日米安保の行方を考えずに発言しているとすればあまりに浅はかではないでしょうか。
もう一つは、政府与党が成立させた安保法制を破棄したいがためだけにこのような主張を行っているという可能性があります。もし仮に憲法で個別的自衛権のみに制限するということを明確にすれば、集団的自衛権の行使を前提とした一連の安保法制は憲法に抵触することとなり、変更を余儀なくされるからです。
しかし、その結果、これまで継続してきた安全保障政策の方針を大きく転換する必要があります。政権打倒を主な目的として、この大転換を引き起こすというのは、目的と手段において著しくバランスを欠いているといえるでしょう。繰り返しますが、それでも日本はその道を行くべきなのだという議論を正面からするのであれば話は別です。
平和で安全に暮らしたいという思いは誰もが共通して持っているものだと思います。憲法9条についてはそのことを根底においた本質的で現実的な議論をしてほしいものです。