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人間を殺してはいけないのにゴブリンを殺してよいのはなぜか? 『ゴブリンスレイヤー』から考える

飯田一史ライター
TVアニメ「ゴブリンスレイヤー」公式サイトトップページより

 シリーズ累計600万部を突破したライトノベル『ゴブリンスレイヤー』の新作エピソードが劇場公開中だ。

 本作は爽快感のあるエンタメだが、同時に居心地の悪さを抱かせ、視聴者の心理をざわつかせる。その理由は何か?

■『ゴブスレ』とは? 今回の導入部あらすじ

『ゴブリンスレイヤー』は、中世風のファンタジー世界を舞台に、ひたすらにゴブリンの殲滅をめざすゴブリンスレイヤーを主人公とし、彼とその仲間たちを描いた物語である。

 今回の劇場版では、ゴブリン退治に向かったあるパーティが帰ってこないことから、そのリーダーの親から主人公たちは救出を依頼される。ゴブリンスレイヤー一行がゴブリンの巣穴に赴くと、パーティのリーダーの女剣士はいたのだが……という筋書きだ。

■ゴブリンはなぜ殺していい存在なのか

 本作は醜悪でずる賢いゴブリンとの生々しい戦闘描写ゆえに観る者に手に汗握らせるが、同時に、個人的には善悪の基準、倫理観を同時に考えさせる作品だと思っている。

 人種差別に対する視線が20世紀以上に厳しくなっている現代にギリギリを攻めているように見える。世の中にはゾンビを殺すフィクションが溢れ、ゾンビは元人間であるにもかかわらず殺しまくってもよいことになっている。同様に、この作品でもゴブリンは殺していいことが前提になっている。

 ところが本作では人間はエルフやドワーフ、リザードマンなどの人間以外の種族とは共闘している。そう考えるとなぜゴブリンは殺していいのか、人々が殺すべき存在だと認識しているのか――それほど単純な問いではないことがわかる。

■ゴブリンのおぞましさは人間との近さから生じる

 ゴブリンは作中世界では忌み嫌われた存在である。

 見た目が醜く常によだれを垂らしているなど不潔なこと、理解不能な言葉を吐くこと、人間たちサイドに悪意と敵意しかないうえ、ずる賢く手段を選ばず略奪と殺戮をくりかえすことが嫌われる理由だ。人間が行うことを学習して模倣したり対策してくる知能はあるが、道徳や倫理観はなく、人間との理性的・対話的なコミュニケーションが不可能なのがゴブリンだ。

 本作に登場するゴブリンを見るとおぞましく感じるが、それはある程度は人間とゴブリンが近いからだ。

 たとえば『ドラクエ』に登場するスライムがどれほど強くて凶暴であったとしても、おぞましさは感じない。人間からあまりに遠いからだ。スライムでなくても現実世界に存在する熊やライオンに襲われたことを想像したときに抱く恐怖と、本作に登場するゴブリンに捕まり凌辱されたり嘲笑われながら殺されることを想像したときの恐怖は質的にまったく別のものだ。

 人間の精神にダメージを与えるにはたんに物理的に傷つければいいわけではなく、大事にしているものをこれみよがしに、屈辱的に奪い、破壊する必要がある。そういう高度な行為は、頭の悪い生きものにはできない――だがゴブリンはできる。

■爽快感と違和感のパラドックス

 作中でゴブリンを醜くずる賢い存在として描けば描くほど、倒したときの爽快感は増す。

 しかし見た目を醜くすることはともかく、賢さを「計算高い」「人間の行動を読んで対策してくる」「人間の知恵や技術を模倣する」「人間のように宗教があり、司祭のような宗教的権威が存在する」「戴冠式のような文化的な儀式を行い、組織内のヒエラルキーが存在している」などさまざまな方向から表現しようとすればするほど、ゴブリンは人間に近い存在になっていく。するとゴブリンを殺すことに対して違和感が生まれてくる。「ある程度は人間に近い存在なのに、ためらわずに殺していいのか?」と。

『ゴブリンスレイヤー』はこうした逆説を背負った物語である。

 ゴブリンは、肌が緑色で、いつもよだれを垂らしているなど、現代人の美的感覚からすると相容れない(現実社会にそういう人間がいたらぎょっとする)から「人間ではない」と感じる。だから殺していいとみなしている。

 しかしたとえば、ゴブリンと言葉によるコミュニケーションが成立し、肌の色が人間のようであったら、ゴブリンスレイヤーの行いは善行ではなく虐殺である。ゴブリンを根絶やしにするという彼の動機は、民族浄化ならぬ種族浄化とも言うべきおそるべき行為になる。その狂気と紙一重の主人公像、そのあやうさゆえに本作はたんなる勧善懲悪の物語に収まらない魅力を孕んでいるのだが……。

 スウィフトの『ガリバー旅行記』では、主人公の冒険者ははじめは理解しがたいと感じた異国の生物と触れ合ううちに「彼らではなく自分たちのほうがおかしい」と思うようになり、自国に帰国後は周囲から奇人扱いされるようになる。

 そうした先行作品の記憶があると、ゴブリン殺しの正しさをまったく疑わないゴブリンスレイヤーの姿を見ていても、あるいは……と価値の反転がいつか起こるのではとドキドキしてしまう(今のところアニメでも原作小説でも大きな転換の予感はないのだが)。

 見た目は醜いが知恵があり文化をもつゴブリンの生々しさゆえに、正義の線引きについてふと考えてしまう作品だ。

ライター

出版社にてカルチャー誌や小説の編集者を経験した後、独立。マーケティング的視点と批評的観点からウェブカルチャー、出版産業、子どもの本、マンガ等について取材&調査してわかりやすく解説・分析。単著に『いま、子どもの本が売れる理由』『マンガ雑誌は死んだ。で、どうするの?』『ウェブ小説の衝撃』など。構成を担当した本に石黒浩『アンドロイドは人間になれるか』、藤田和日郎『読者ハ読ムナ』、福原慶匡『アニメプロデューサーになろう!』、中野信子『サイコパス』他。青森県むつ市生まれ。中央大学法学部法律学科卒、グロービス経営大学院経営学修士(MBA)。息子4歳、猫2匹 ichiiida@gmail.com

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