【京都市西京区】桜が終わっても楽しめる! PRキャラクターから学ぶ西山山麓ゆかりの歴史人とその聖地
三方を山に囲まれた京都では、都から展望して、東方の山々を「東山」、北を「北山」、西を「西山」と呼びます。観光地として有名な東山、北山に遅ればせながら、今注目を集め始めている「京都西山」は京都市西京区、長岡京市、向日市、大山崎町にまたがる広範な地域に及びます。
その西山地域の観光地や公共施設などで時折見かけるPRキャラクターをご存じですか? 実はこれ、「さい君」、「なり様」、「お玉ちゃん」といずれも西山ゆかりの歴史上の人物がモデルとなっていて、イラストレーターの「はかなシ」さんが西京区の若手職員らでつくる西山文化魅力発信プロジェクトの依頼で製作をしたものなんです。2024年4月3日のFMおとくに「Radio Booze K」では、その「はかなシ」さんを中心に西山談義もなされました。
さてその「さい君」こと西行法師は、元は鳥羽上皇に仕えた北面の武士で、武勇に優れ、佐藤義清(のりきよ)と言いました。「新古今和歌集」や「小倉百人一首」などで有名な、平安時代末期の歌人です。23歳の時、突然に官位も妻子も捨てて出家しました。その理由は、皇位をめぐる骨肉の政争への失望、鳥羽天皇の中宮待賢門院に失恋したなど諸説あります。
西山山麓の勝持寺は、西行法師が出家した寺としても知られています。左手の薬壷から右手で薬を摘み取る珍しい姿の薬師如来が本尊として瑠璃光殿内に安置されています。春には、西行法師が植えたとされる西行桜始め、約100本の桜が彩ります。紅葉も約100本あり、四季折々に風情を醸し出す「花の寺」として知られます。
「なり様」こと在原業平もまた、平安時代の歌人で、六歌仙の一人としてその名を残します。父に平城天皇の皇子・阿保(あぼ)親王、母に桓武天皇の皇女・伊都(いと)内親王をもつ貴公子で、 容姿端麗で、情熱的な和歌の名手であったといわれ、男女の恋愛にまつわる伝承が多々あることから、「平安一の貴公子」などともいわれたりします。
なりひら桜やなりひら紅葉で知られる十輪寺には、その業平が、晩年になって隠棲し、当時の粋な風情としての塩焼きを楽しんだという、塩がまの旧跡が残されています。本堂の屋根は鳳輦(ほうれん)型という神輿型の珍しい建物で、そちらも見所です。
「お玉ちゃん」こと玉は、諸説ありますが、西陣の八百屋あるいは酒屋の娘といわれ、当時江戸城大奥の春日の局のスカウトで徳川3代将軍家光の側室になり、5代将軍綱吉の生母になったといわれています。家光の死後は出家して桂昌院と名乗り、大奥の実権を握ったといいます。
これまで、犬公方といわれた綱吉や側用人の柳沢吉保、僧隆光とともに、幕府の財政を破綻させ、生類憐れ令で庶民を苦しめた稀代の悪女と評された桂昌院ですが、最近の研究では、綱吉の評価とともに名将軍を生んだ母として再評価されてきています。庶民の暮らしぶりを幕閣の誰よりも知り尽くしていた桂昌院が諸国の寺社再興、今でいう公共投資に尽力し、生類憐みの令は、殺伐とした武断社会から、儒教と仏教を重んじる社会へ改革すべきだと主張した桂昌院や綱吉の日本最初の動物愛護令であったとの見方もあります。
ちなみに、この桂昌院が、庶民から政権の中枢にまで上り詰めたことから「玉の輿」の言葉が生まれたともいわれています。西山三山の一つ、善峯寺は、桂昌院が6歳の時に義兄善峯寺成就坊賢海の許にて母の栄女とともに同居したところとされ、13歳の時に春日局に従い江戸に下り、徳川家に仕えたといわれます。応仁の乱で焼失した善峯寺の伽藍を再建したのは、桂昌院でした。境内には「けいしょう殿」始め、ゆかりの場所や品々が残されています。
オーバーツーリズムとは無縁の歴史ロマンあふれる西山地域へぜひ足を運んでみてください!
勝持寺(外部リンク)京都市西京区大原野南春日町1223-1 075-331-0601
十輪寺(外部リンク)京都市西京区大原野小塩町481 075-331-0154
善峯寺(外部リンク)京都市西京区大原野小塩町1372 075-331-0020
イラストレーター「はかなシ」(外部リンク)