【戦国こぼれ話】地獄のような鳥取城の惨劇。440年前に行われた羽柴(豊臣)秀吉の兵糧攻めの全貌
先日、鳥取城跡の大手門が復元整備された。かつての威容を取り戻した。ところで、440年前の天正9年(1581)、羽柴(豊臣)秀吉は鳥取城の兵糧攻めを敢行した。その全貌を取り上げることにしよう。
■鳥取城攻めの開始
天正8年(1580)1月、三木城の平定を終えた羽柴(豊臣)秀吉は、織田信長の命を受けて、すぐさま但馬・因幡の平定に向かった。
それ以前から因幡平定は始まっており、すでに城主である山名豊国は降伏していた。しかし、降伏を潔しとしなかった豊国は、密かに吉川元春と通じて応援を依頼したという。天正9年(1581)5月、鳥取城に派遣されたのが、石見吉川家の当主で吉川経安の子・経家である。
籠城直後、豊国はにわかに秀吉に投降し、その軍門に下った。この理由に関しては、毛利方が豊国を暗愚とみなし追放したなど、多くの説がある。そして、秀吉は降伏した豊国などを引き連れ、鳥取城の攻略に乗り出した。取った作戦は兵糧攻めであり、その準備には余念がなかった。
■兵糧攻めはじまる
秀吉は鳥取城を兵糧攻めにすると決するや、鳥取城の西北に付城として丸山・雁金の2つの城を築いた。付城の構築は秀吉の十八番であり、三木城合戦でも効果を発揮した作戦でもある。
しかも築城のスピードは、群を抜く速さであった。そして、鳥取城を完全に包囲し、蟻の這い出る隙間も与えなかったといわれている。
加えて、秀吉は米などを通常よりも高い値段で購入し、先手を打った。もともと鳥取城は兵糧が乏しかったといわれており、秀吉の食糧買い占めにより窮地に陥った。また、鳥取城には多くの農民らが入城したという。それは食糧の浪費を促すため、秀吉が城内に追い込んだといわれている。
秀吉の兵糧攻めは、同年の6月下旬から付城の構築と相俟って進められた。徐々に鳥取城の食糧が尽きていったことは、『石見吉川家文書』中の吉川経家の書状で随所に触れられている。その言葉からは、城内の食糧事情の厳しさが伝わってくるが、あまり具体的ではない。
むしろ、阿鼻叫喚ともいえる描写を行っているのは、『信長公記』や『甫庵太閤記』といった史料である。次に、その凄惨な内容を掲出しておこう(内容的には似た部分が多いので、『信長公記』を掲出する)。
因幡国鳥取郡の一郡の男女は、ことごとく鳥取城中へ逃げ入って立て籠もった。下々の農民以下は、長期戦の心構えがなかったので、即時に餓死してしまった。はじめは五日に一度か三日に一度鐘を衝くと、それを合図に雑兵が城柵まで出てきて、木や草の葉を取り、中には稲の根っこを上々の食糧とした。
鳥取一郡の男女という表現は大袈裟であるが、それほど多数の人間が入城した表現と捉えてよいであろう。農民たちは心構えがなかったため、すぐに飢え死にしたとあるが、実際には非戦闘員にまで食糧が回らなかった可能性もある。
雑兵が城柵近くの葉などを食していたということは、城内の食糧が尽きていたことを示している。具体的な時期は示されていないが、籠城が始まってから、さほど経過していない頃と考えられる。
■カニバリズムという惨劇
時間の経過とともに食糧事情が悪化すると、惨劇はさらに深まった。
のちになると、これ(草の葉など)も尽き果てて、牛馬を食らっていたが、露や霜に打たれて餓死する者は際限なかった。餓鬼のように痩せ衰えた男女は、柵際へ寄ってもだえ苦しみ、「ここから助けてくれ」と叫んだ。叫喚(大声を上げて叫ぶこと)の悲しみ、哀れなる様子は、目も当てられなかった。
この描写は、三木城の兵糧攻めのときと同じような記述である。しかし、悲劇はこれだけに止まらなかった。いわゆるカニバリズム(人肉を食うこと)が見られたのである。次に、確認しておこう。
(秀吉軍が)鉄砲で城内の者を打ち倒すと、虫の息になった者に人が集まり、刃物を手にして関節を切り離し、肉を切り取った。(人肉の)身の中でも、とりわけ頭は味がよいらしいとみえて、首はあっちこっちで奪い取られていた。
食糧不足が極限に達すると、人々の理性は完全に失われた。しかし、死んだ人間の肉はまずかったようで、たとえ虫の息であっても、生きた人間が食に供されたようである。中でも頭がうまいというのは初耳であるが、脳みそのことであろうか。いずれにしても、惨劇がここに極まったのは、いうまでもないであろう。
このような事態を受けて、同年10月25日、城主・吉川経家は城兵を助けることを条件に切腹したのである。人が人を食らうことを知った秀吉は、どう思ったのだろうか。もはや知る由もない。