【九州三国志】剛毅なる戦人、由布惟信!六十五度の戦場に立った立花家の忠将
由布惟信は、由布惟巍の次男として生まれ、若くして武名を馳せた立花道雪の重臣として知られています。
本来は大友氏の家臣として湯布院城を治めていましたが、兄・碁晨に家督を譲り、道雪に従い立花家にその生涯を捧げました。
「天資英邁にして剛毅」と評され、六十五度の合戦に身を投じて六十五箇所の傷を負いながらも、一番槍や一番首を数え切れぬほど挙げ、七十通の感状を賜るなど、無類の武勇を誇りました。
立花道雪は、孫子兵法の「奇正相生」を用い、惟信を「正」の将、小野鎮幸を「奇」の将として両翼に据えました。
二人は「立花双翼」と称され、立花家を支える重要な存在となります。
また、惟信は武だけでなく優れた政治手腕をも発揮し、天正8年(1580年)には博多津の東分役を任されるなど、内政面でも大いに活躍しました。
道雪の没後もその遺志を受け継ぎ、養子の立花宗茂を支えました。
宗茂が改易されると共に江戸に赴き、後に棚倉藩主として復帰した宗茂に従い、息子の惟次とともに藩内行政を担います。
生涯で三十余度の戦場に立ちながら一度も敗れなかったといわれ、その武名は後世にまで語り継がれているのです。
惟信の戦歴には、永禄5年(1562年)の柳浦の戦いや、永禄12年(1569年)の多々良浜の戦いなど数々の激戦が刻まれています。
特に一番槍や一番乗りで功績を挙げた場面が多く、まさに不屈の武将として立花家を支え続けました。
天正15年(1587年)、宗茂が柳川藩主となると、3500石を拝領し酒見城主に任じられます。
老齢となっても前線で奮戦し、肥後国人一揆では奇襲で先鋒を務め、一番乗りの名誉を再び手にしました。
享年86歳。死してなおその武勇と忠義は語り継がれ、立花家の歴史に名を刻んでいます。
道雪の遺言に従い、彼の死後もその甲冑を丁重に葬るなど、その忠誠心と剛毅さは、まさに戦国の鑑と言えるでしょう。