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白仁天(太平洋クラブ)と首位打者を争った日ハムの小田義人よ、安らかに眠れ

豊浦彰太郎Baseball Writer
白仁天と小田義人のすれ違った首位打者争いの舞台、平和台球場の跡地(ペイレスイメージズ/アフロ)

ぼくは通常は追悼記事を書かない。死去したとたんに褒めちぎられる現象をあまり快く思っていないからだ。かと言って、思うままを綴って結果的に死者にクリティカルな内容になるのもやはりどうかと思う。

で、5日に肺がんで亡くなった小田義人氏に関しては、客観的な事実と個人的な思い出だけを距離を置いて記したいと思う。

各社の報道を見ると氏を「元ヤクルトスカウト部長」で「青木宣親の獲得に尽力」と紹介しているケースが多いようだ。しかし、ぼくにとっては「白仁天と首位打者を争ったライバル」だ。

1975年、ぼくは太平洋クラブライオンズの熱狂的ファンの小学6年生だった。当時、プロ野球のテレビ中継は地元と言えども巨人戦がほとんどだったので、いつもラジオに噛り付いてライオンズを応援していた。当時ライオンズはとても弱かったのだけれど、まれにリードして試合終盤を迎え、マウンドにノーコンの浜浦徹(今は故郷の四国で独立リーグの解説者をしているそうな)が上がっていたりすると、とてもじゃないがまともに聴いていられなかった。その年も(前後期通算順位でこそ3位だったが)しっかり負け越したのだが、なぜかタイトルホルダーを量産しており、白仁天が首位打者(.319)、土井正博が本塁打王(34本)、東尾修が最多勝利投手(23勝)のタイトルを獲得した。なんのことはない。イチバンヒットを打つのが上手い巧打者がいて、イチバンホームランをよくかっ飛ばすスラッガーがいて、イチバンよく勝つ投手がいながら半分も勝てなかったのだ。

その3人の中でもっとも苦戦したのが白だった(東尾も最終戦での単独タイトル獲得という綱渡りだったが)。この年の白は故障だかなんだかで、夏場は欠場が多かったと記憶している。そして打席数が規定打席キッチリの403しかなかった(当時は130試合制)。シーズン終盤には2位の選手の猛追を受けていた。それが、ヤクルトから日本ハムに移籍1年目だった小田義人だった。その頃、東映〜(日拓)〜日本ハム選手で首位打者争いをするというと張本勲と相場が決まっていたが、この年(張本にとって日本ハム最終年だった)は不調で打率は2割7分台に低迷していた。

残り試合はほんの数ゲームになった時のことだ。欠場が多かった白がようやく403打席に達した。その時の打率は.3193でリーグ首位。すると、われらが太平洋の江藤慎一監督(選手兼任だった)ははっきりと「もう白は出さん」と宣言した。このコメントは当時わが家で取っていた読売新聞のスポーツ欄で読んだのを今でもはっきり覚えている。江藤の親分はガチンコ勝負を避け、逃げ切りを選んだのだ。

結果的にこの戦術は成功した。小田は猛追するも.3187。両者の差は文字通り「毛」ほどでしかなかった。厘までの表記ならともに.319。本塁打16、打点53も奇しくも共通だった。

少年だったぼくは、単純に贔屓球団の選手の栄冠を喜んだ。しかし、その後1982年のセ・リーグ首位打者争いでの田尾安志(中日)への大洋の敬遠攻めや1984年セ・リーグ本塁打王争いでの掛布雅之(阪神)、宇野勝(中日)への敬遠合戦などを見るにつけ、タイトル争いにおける恥も外聞も顧みない「獲ったもん勝ち」傾向に対し「タカ派(ホークスファンという意味ではない)」化していった。

しかし、あれから43年も経ったのか。勇敢な敗者だった小田義人よ、R.I.P.

Baseball Writer

福岡県出身で、少年時代は太平洋クラブ~クラウンライターのファン。1971年のオリオールズ来日以来のMLBマニアで、本業の合間を縫って北米48球場を訪れた。北京、台北、台中、シドニーでもメジャーを観戦。近年は渡米時に球場跡地や野球博物館巡りにも精を出す。『SLUGGER』『J SPORTS』『まぐまぐ』のポータルサイト『mine』でも執筆中で、03-08年はスカパー!で、16年からはDAZNでMLB中継の解説を担当。著書に『ビジネスマンの視点で見たMLBとNPB』(彩流社)

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