武蔵小杉ってどんな街?その成り立ちと現在に至るまでの歴史
この記事は、「あんな鉄の塊ばっかり作りやがって!」武蔵小杉の地元民とタワマン住民の対立は本当?|なかはらPRより一部引用しています。
2019年、武蔵小杉は「50年に1度の大雨」と言われた台風19号の甚大な被害に見舞われました。関東から東北を襲い、90名の死者をもたらしたこの台風によって、それまで人気の街として世間から注目を浴びていた武蔵小杉は、一瞬にして”水害の街”としてネガティブな印象を持たれることになりました。
これ以降、世間の武蔵小杉に対するイメージとして形成されたのが、「地元民とタワマン住民の対立」です。
水害によって停電、断水、更には汚泥の流出被害を受けたタワマンと、それに怒る「ムサコマダム」と呼ばれるタワマン住民、その様子を傍から「ざまあみろ」と嘲笑う地元民という構図はネットを沸かせました。
ですが、そもそも武蔵小杉とはどの様な街なのでしょうか。
武蔵小杉と聞くと、多くの方は「タワーマンション」と「再開発」をイメージするのではないかと思います。しかし、私はいつも武蔵小杉を一言で表すなら「下町」だと表現しています。
どういうことかと言えば、そもそも街の成り立ちが小杉御殿や小杉宿を中心とした東京と地方を繋ぐ交通の要所として栄えたことに遡ります。
中原街道が整備された武蔵小杉周辺は、「江戸への玄関口」として商人や庶民が通る街でした。東海道は大名行列が通る為、そうした煩わしさを嫌った商人たちが”旅人の最速ルート”である中原街道を通ったと言います。それによって、小杉エリアは古くから栄えてきました。
その後は、経済成長と共に川崎駅周辺と同じように工場や社宅が建てられ、労働者の拠点として発展していきます。
こうしたざっくりとした成り立ちを見れば、武蔵小杉が決して”お高くとまる街”でもなく”田舎町”でもない、「下町」であることに何となく納得できるのではないでしょうか。
今でも、ちょっと駅から歩けば昔ながらの地元に根付いた居酒屋が残っており、地元の人に親しまれています。(どんどん減っていますが・・・。)
そして、そうした下町である武蔵小杉から工場や社宅が徐々に撤退していき、そこに建てられていったのがタワーマンションや大型商業施設なのです。