"まるで嵐のような9年間" 天海祐希、タカラヅカ時代の伝説4選
話題の映画『老後の資金がありません!』を見た。
「現代日本が抱えるお金の問題に、普通の主婦が立ち向かう」というテーマの作品だ。天海祐希さん演じる篤子は、夫と二人の子どもがいる「普通の主婦」である。パートで働き、夕食は豚もやし鍋で節約し、ヨガ教室だけを楽しみに慎ましく生活しているわけだが、そこに、お金にまつわる難題が次から次へと降り掛かる。
義父のお葬式での思わぬ出費に始まり、夫の会社の突然の倒産、派手婚を望む娘、挙句の果てには贅沢暮らしに慣れた姑と同居する羽目に…と、見ている私も身につまされるアクシデントが続く。だが、立ち向かっていく篤子さんの姿は清々しい。「こんなに綺麗でカッコいい『普通の主婦』なんて存在しないでしょ」と内心で突っ込みを入れつつ、その一挙一動を見ているだけでも気分が明るくなり、元気が湧いてくる。改めて、天海祐希さんという人は不思議な力を持った役者だと思う。
今ではドラマに映画にと大活躍の天海さんだが、その俳優としてのキャリアをスタートさせたのは宝塚歌劇団である。そして、タカラヅカ時代から天海さんはすでに「伝説のスター」であった。
ところが、私ときたらその舞台をほとんど見逃してしまっている。子どもの頃からタカラヅカの舞台を観ているが、唯一、1980年代後半から90年代前半だけは劇場から足が遠のいていた。それは、天海さんのタカラヅカ時代にすっぽり当てはまる。
私が天海さんの舞台を観たのは『風と共に去りぬ』(1994年)と、退団公演の『ME AND MY GIRL』(1995年)だけなのだ。タカラヅカを探究する者として、そのことをずっとウィークポイントだと感じてきた私、良い機会なので「天海祐希さんのタカラヅカ時代」を振り返ってみようと思い立った。
天海祐希、タカラヅカ時代の4つの伝説
史上最速のトップ就任と入団1年目での新人公演主演
巷でよく知られる「天海祐希伝説」は、タカラヅカ史上最速の入団7年目(より正しくは6年半)でトップスターに就任したこと、そして、入団1年目にして新人公演で主演したことだろう。
ちなみに、通常トップスターへの就任は入団10年目以降から15年目あたりであることが多い。現在の5組のトップスターはいずれも順調にトップへの道を歩んだ印象だが、星組の礼真琴が11年目、花組の柚香光が12年目、月組の月城かなとと宙組の真風涼帆が13年目、雪組の彩風咲奈は15年目である。
また「新人公演」とは、入団7年目までの生徒で本公演と同じ作品を上演するという、若手の勉強の機会なのだが、これも7年目近くで主演することが多く、現在の5組のトップスターは4〜6年目に初主演している。
したがって、入団1年目にして新人公演の初主演を果たし、本来であれば新人公演最後の年である7年目にトップスターに就任してしまうというのは、それだけで奇跡の伝説だ。
4年目までに6度の新人公演主演、バウホール主演も4年目
加えて、今回驚いたのはその間の「密度の濃さ」である。天海さんは入団1年目の1987年に新人公演で主演した後も、4年目までの間に6度も新人公演で主演しているのだ。1988〜90年の3年間における6度の月組新人公演は1989年末の『天使の微笑・悪魔の涙』(主演は久世星佳)を除き、すべて天海さんが主演を務めている。
もちろん今でも、未来のトップスター候補生と目される生徒には何度か主演の機会が与えられる。だが、早くから注目されてきたはずの現在のトップスターでさえ、柚香・月城・礼は3回だ。彩風と真風は5回主演しているが、その間隔は開いており、最後の主演は7年目である。
また、客席数500の小劇場「宝塚バウホール」での初主演は、新人公演主演の次のステップであり、通常は新人公演最終学年である7年目あたりに機会を与えられることが多い。ところが、天海さんの場合、これまた入団4年目という異例の早さだ。しかも、トップ就任までの間に3度も主演している。
以下に、天海さんのタカラヅカ時代の略歴とターニングポイントとなった作品についてまとめてみよう。
◆1985年、宝塚音楽学校に入学。
◆1987年(入団1年目)
宝塚歌劇団に入団(73期)。雪組公演『宝塚をどり讃歌』『サマルカンドの赤いばら』で初舞台の後、月組に配属。
同年11月の月組公演『ME AND MY GIRL』新人公演にて、ビル役として初主演。
◆1988年(入団2年目)
5月、『南の哀愁』新人公演にて、ジョン・マクレディ役で2度目の主演。
11月、『恋と霧笛と銀時計』新人公演にて、水野銀次郎役で3度目の主演。
◆1989年(入団3年目)
5月、『新源氏物語』新人公演にて、光源氏役で4度目の主演。
10月、ニューヨーク公演に参加。
◆1990年(入団4年目)
2月、『大いなる遺産』新人公演にて、フィリップ・ピリップ役で5度目の主演。
4月、バウホール公演『ロミオとジュリエット』にて初主演。
8月、『川霧の橋』(トップスター剣幸の退団公演)にて清吉役。新人公演にて、幸次郎役で6度目の主演。
◆1991年(入団5年目)
3月、『ベルサイユのばら -オスカル編-』(トップスター涼風真世のお披露目公演)にて、アンドレ役/ジェローデル役。
11月、バウホール公演『たとえば それは 瞳の中の嵐のように』にて、2度目の主演。
◆1992年(入団6年目)
7月、『PUCK』にて、ボビー役。
9月、バウホール公演『高照す日の皇子』にて、3度目の主演。
◆1993年(入団7年目)
4月、『グランドホテル』(トップスター涼風真世の退団公演)にて、ラファエラ役(女役)。
9月、トップスターお披露目公演『花扇抄』『扉のこちら』『ミリオン・ドリームズ』。
◆1994年(入団8年目)
1月、『風と共に去りぬ -バトラー編-』にて、レット・バトラー役。
6月、『エールの残照』『TAKARAZUKA・オーレ!』にて、シャムロック役。
◆1995年(入団9年目)
8月、退団公演『ME AND MY GIRL』にて、ビル役。12月26日、東京宝塚劇場公演千秋楽にて退団。
こうしてまとめているだけで空恐ろしくなる「嵐のような9年間」である。おそらくタカラヅカファンの方は、ここまで読んで私と同じ感覚を持たれたのではないかと思う。先ほど「ターニングポイントとなった作品を挙げる」と書いたが、こうして見ると、毎年がターニングポイントではないか。
つまり、天海さんは天性の才能だけでポンとトップスターになったわけではない。劇団も、天海祐希という逸材に対して相応の「帝王教育」を施した。いや、期間が短かった分、その密度は余計に濃いものだった。いわば、天海さんは普通のトップスターが通るべき関門を倍速で通過し続けて、トップスターの座についたのである。
スターシステムを取るタカラヅカは競争社会でもあり、誰かがチャンスを独占するということは、他の人からはチャンスが奪われるということでもある。同時代の他のスターたちや、そのファンの人には穏やかならぬ思いもあったことだろう。そして、そんな中でもひたすら期待に応え続けねばならなかった立場には、どれほどの重圧があったことだろう。だが、それでも衆人を納得させるものがあったのが、天海祐希というスターだったに違いない。
一般に、人気と実力を兼ね備えた人がある程度の長期間トップスターを務めた方が、公演単位としての組は安定する。天海さんに関しても当然そうなるものと、誰もが思っていたことだろう。ところが、天海さんの在任期間は、2年半という比較的短いものだった。
1995年5月30日に行われた退団発表の記者会見では「ずっと前から、この時期にと思っていた」と述べている(『歌劇』1995年7月号)。そして「男役10年」に満たない9年目の1995年末、入団1年目に抜擢されたのと同じ『ME AND MY GIRL』のビル役を最後に、天海さんはタカラヅカを去っていった。
「自然体」「ナチュラル」な男役スター・天海祐希
次に、タカラヅカ時代の天海さんのファンだったという方の声も聞いてみたいと思った。アンケートフォームを作成しTwitterを利用して協力者を募ったところ、33名の方の声を聞くことができた。
まず驚いたのが、回答者の年齢構成だった。40代・50代が中心であったことは予想どおりだが、20〜30代の人も3分の1近くを占めたのだ。天海さんが在団した1990年前後は今から30年も前だから、30代の人はせいぜい小学生、20代に至ってはまだ生まれていないか、生まれていても物心はついていない頃だ。
いったいどういうきっかけでファンになったのかというと、映像である。家族や知り合いからタカラヅカ時代のビデオを見せられて「ハマってしまい」、ずっと憧れの人である、というのだ。恐るべき吸引力である。
「タカラヅカ時代の天海祐希さんの魅力」について挙げられたのが「美貌で長身」「圧倒的な華」「明るさ」。これらは誰しも予想する回答だが、この他に特に目についたのが「自然体」「ナチュラル」「あっさり」といった言葉である。
つまり天海さんは、良い意味で「タカラヅカの男役らしくなかった」のだ。一般に、タカラヅカの男役は異なる性をカッコよく演じるために努力を重ねる。だから「男役10年」という言葉がある。ところが、天海さんの男役姿には、この「作り込み感」がなかったのだ。作り込まなくとも十分にカッコ良かったのである。
しかも、その「カッコ良さ」が、ステレオタイプな男らしさとはまた違う、性別さえも超越したものだったのだろう。それは外見だけではない、内面、生き方も含めた「カッコ良さ」でもあった。
それが男役・天海祐希にしかない唯一無二の魅力であり、「いかにも男役」には引いてしまいがちなタカラヅカ初心者、特に若い世代を惹き付けたのだ。
ファンの記憶に残る『エールの残照』という作品
「タカラヅカ時代の天海さんの出演作のうち、特に好きな作品・役」についても聞いてみた。これに対してはタカラヅカ時代の最初と最後に演じた『ME AND MY GIRL』のビルを挙げた人が、やはり10名と多かった。
だが、これと同数の方が挙げた作品がある。それは『エールの残照』(1994年)のシャムロックである。作・演出の谷正純が天海さんのために当て書きしたオリジナル作品だ。第一次世界大戦後のアイルランドを舞台とし、独立運動や植民地支配にも焦点を当てた硬派な作品である。あらすじは次のようなものだ。
アイルランド貴族の軍人シャムロックは、父の死により赴任先の英領インド帝国から帰国する。貴族による支配に疑問を感じていたシャムロック(天海祐希)が領地を小作人たちに分け与える手続きを進めようとしていた最中、アイルランド独立運動の闘士たちが屋敷に逃げ込んでくる。
リーダーのダニエル(久世星佳)は、独立達成のためなら手段を選ばぬ冷徹な男と化していた。彼の婚約者ロージー(麻乃佳世)も気丈な姿で行動を共にしていたが、シャムロックの優しさに触れるうち、次第にダニエルのやり方に疑問を感じ始める。
ラッセル准将(姿月あさと)率いるイギリス軍の弾圧が強まる中、屋敷の近くの孤島に、ドイツ軍が残した大量の武器が隠されていることが判明。自分の命に代えてもこの武器の存在をダニエルらに知られてはならないと、ダイナマイトを手に島に向かったシャムロックは、嵐の中でロージーと再会する。そしてダニエルもまた、武器を求めて島にやって来る…。
とりわけ、ロージーの遺体を肩に担いで、ひとり銀橋(宝塚大劇場独自の舞台機構であるエプロンステージ)を渡るラストシーンは、天海さんにしかできない伝説の名場面として知られる。
不思議なことに、この『エールの残照』、再演を希望する声は聞いたことがない。だが、改めて映像を見直してみて納得した。
差別を廃し平和を愛する理想主義者のシャムロック伯爵は、タカラヅカのトップスターにありがちな「白い役」だが、一歩間違えると、ただの世間知らずのおぼっちゃまに見えてしまう。それなのに、天海さんがやると圧倒的な説得力が感じられた。それに、天海さんの持つ眩いばかりの明るさが、このシリアスな舞台では救いだ。これは『老後の資金がありません!』を見て受けた感覚と同じである。
さらに、薄幸のヒロインであるロージー(麻乃)の健気さ、シャムロックとダニエル(久世)の光と闇のような対比もいい。やはり、この三人以外では観たくないということだろう。
女優・天海祐希とタカラヅカ
タカラヅカにおいてファンを魅了する「男役スター」は、その独特の様式の中で時間をかけて創られていく存在だ。だから、退団後に女優へと転身する際には、10年以上かけて身につけた「男役の殻」を脱ぎ捨てなくてはならない。
ところが、こと天海さんに限っていえば、持って生まれたものが、たまたま「タカラヅカ」という枠組みにもぴったり合ってしまい、そして今は女優として活かされている、という感じがする。
まさに同じような感覚を、私も味わった。普通は、タカラヅカ時代に男役だった人が女優として活躍している姿を見たときは「ああ、すっかり女性に戻られたな」などと感慨深いものだが、『老後の資金がありません!』の篤子さんは、『エールの残照』のシャムロック伯爵の姿と、驚くほど変わりなかったのだ。
それでは、タカラヅカ時代なくしても現在のような女優・天海祐希が存在したかというと、それもまた違う気がする。
天海さんの場合、そのタカラヅカ時代の経験も唯一無二のものだった。この経験が糧になっていないはずがない。天海さんにとって、タカラヅカ時代の密度濃い日々はどういう意味を持ったのだろう。いつかそれが詳しく明らかにされるときが来るといいなと思う。
アンケートでは卒業後の天海さんの活躍に対して、どう感じるかについても聞いてみたが、現在の天海さんの魅力をタカラヅカ時代の延長にあるものとして捉える声がやはり多かった。
「最近はインタビューなどでもタカラヅカ時代の話を少しずつしてくれるようになって嬉しい」という声や、タカラヅカOGのイベントへの出演を切望する声も目についた。
そういえば映画『老後の資金がありません!』の中でも、篤子さんが「私もタカラヅカに入りたかったんです!」と言い、草笛光子さん演じる姑に「無理よ」と一蹴される場面があり、大笑いしながらもやはり嬉しかったものだ。
伝説のスター・天海祐希を知らずして、タカラヅカの歴史は語れない。そして、タカラヅカにこれほど大きな足跡を残し、羽ばたいていった天海さんのことは、タカラヅカを探究する者としてこれからも見届けていきたい。この原稿を書き終えた今、改めてそんなふうに思う。
【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】