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石臼がなければうどん・そば、さらに和食も誕生しなかった?

坂崎仁紀大衆そば研究家・出版執筆編集人・コラムニスト
中野坂上の宝仙寺にある「石臼塚」(筆者撮影)

うどん・そば誕生に欠かせない存在

 「そば切り」(現在のそばのこと)はいつ誕生したのか興味が湧く。そしてそれを調べていくと、そば粉を作る石臼がいつ普及したのかということがキーポイントであることが分かってくる。まあ当たり前の話といえばそれまでだが、そこには日本独特の発展があったというところが重要である。

丹沢そばの田舎せいろそば(筆者撮影)
丹沢そばの田舎せいろそば(筆者撮影)

 石臼の構造は分かりやすい。下臼(雄臼)は固定した状態で、上臼(雌臼)を回転させることにより、製粉する道具である。主に花崗岩や安山岩が使用されている。火山が多い日本にとっては入手しやすい石の道具といえる。

丹沢そばの製粉製麺室にある業務用電動石臼(筆者撮影)
丹沢そばの製粉製麺室にある業務用電動石臼(筆者撮影)

石臼の歴史は古い

 石臼の歴史は相当古い。初期の石臼は石皿を往復運動させて挽いていた。世界では紀元前3000年頃からエジプトを中心に「サドルストーン」という平たい石皿で小麦粉を挽く方法が長い間続いていた。もっとも古いものはシリアあたりで紀元前9000年頃に使用されていたものだという。その後紀元前500~400年頃にギリシャから地中海を中心に円形で手動で挽く「ロータリーカーン」が発明され、その後、水車などで動く「ミルストーン」(日本では碾臼)が登場する。もちろん西洋では保存食としてのパンを作るための小麦粉を挽くためである。小麦は貨幣とさえいわれていた。

上中里の浅野屋にある石臼、上臼(雌臼)を回転させる(筆者撮影)
上中里の浅野屋にある石臼、上臼(雌臼)を回転させる(筆者撮影)

日本で登場したのは610年

 日本で石臼が登場するのは「日本書記」によると推古天皇18(610)年。「ロータリーカーン」に近いものが大陸から伝来した。

 しかし、日本では米は粒食が中心であったため、全国に普及することはなかった。奈良平安の時代は手で杵を持ち上げ臼に落として粉にする「たて杵とくびれ臼」、足などで杵がついた棒を臼に落として突いて粉にする「唐臼」が細々と使われていた。一部の貴族などの特権階級で「そうめん(索麺などといわれていた)」が食べられていた程度である。「麦切り(うどん)」は空海が中国から持ち込んだという説もあるが、石臼は一部でしか使っていなかったと思われる。

石臼の普及は鎌倉時代後期から室町時代、江戸時代

 日本で石臼が普及していくのは鎌倉時代後期から室町時代。江戸時代に庶民まで広まったとするのが一般的である。

 静岡生まれの臨済宗の僧侶、円爾(えんに)、後の聖一国師は仁治2(1241)年、宋から帰国後、博多にて承天寺を開山したが、その際、水車を動力に使った「水磨様」という石臼と杵による製粉技術を持ち帰り、うどん・そばの作り方を広めたという。

禅宗の普及に石臼が使われた可能性も

 この背景には、庶民に禅宗を普及するために石臼による製粉製麺技術を日本各地へ広めていったという側面もありそうだ。僧侶による「そばの道」が博多から長州や出雲、出石、京都などへ広まり、やがて信州、江戸まで広まっていった。僧侶が持ち歩いた設計図を基に、石職人が石臼を作るようになる。

石臼の広がりとともにうどん・そばの伝播の道ができていった(筆者作成)
石臼の広がりとともにうどん・そばの伝播の道ができていった(筆者作成)

日本には優秀な石職人がたくさんいた

 またこの時代は武士による戦国時代でもあり、築城や石を使った工具などを作る技術が進歩していた。火薬を作るのにも石臼が利用されていた。ベンガラ(弁柄)色の朱色の原料である酸化第二鉄を粉するのにも石臼が使われていた。石臼は当時の産業の要となる工作機械でもあった。

 天下泰平の世になると、石臼は地方の名主や豪農にも渡り、農民が収穫した小麦や蕎麦を持ち込んで粉にして、初めは「すいとん」や「そばがき」が、その後、「麦切り(うどん)」や「そば切り(そば)」などの麺を作ることが徐々に広まっていった。うどんは貴族や武士が、そばは農民や商人に徐々に広まった。江戸時代ではそば粉よりうどん粉の値段の方が高かったというのも面白い。

そば切りの歴史的記載

 時代は前後するが、1300年代後半、山口県周南市の漢陽寺(臨済宗)で檀家に「そば切りを振る舞った」とする古文書がある。この地域は寺方蕎麦の鹿野蕎麦が有名である。博多からのそばの道があったと思われる。蛇足だが、隣の山口市には蕎麦ヶ岳(556m)という名前の山がある。三角錐の山容がそばの実の形に似ていることから命名されたようだ。

 天正2(1574)年、木曽定勝寺(臨済宗)で「振舞 ソハキリ」したことが、番匠作事日記に記されている。

 江戸では慶長19(1614)年、東光院(当時小伝馬町、こちらは天台宗)で「ソハキリ振舞う」と慈性日記に記されている。

 寛永元(1624)年、長野県木曽郡木曽町でそば屋「越前屋」が創業した。

 こうした経過を考えると、遅くとも1500年代後半から都市部や街道筋でうどん屋やそば屋を営む店が誕生していたと考えられる。1600年代中頃には、江戸でもそば屋が多く誕生し「そば切り」が食べられるようになっていた。

新松戸「たぬきときつね」のきれいに製麺された「冷したぬきそば」(筆者撮影)
新松戸「たぬきときつね」のきれいに製麺された「冷したぬきそば」(筆者撮影)

石臼塚を訪問

 大正・昭和の時代になると電動式の石臼が登場し、手動の石臼は廃れていく。東京都中野区中央2丁目にある宝仙寺には、手動の石臼を供養する石臼塚がある。昭和初期、当時の住職が長野市信更町三水に捨てられていた石臼を持ち帰って築いたとか。中野坂上一帯は神田川が流れ、水力などによる石臼を使った製粉業が盛んで、高野製粉所などの大手製粉所がたくさんあったという側面もある。

中野坂上駅からすぐ近くにある宝仙寺(筆者撮影)
中野坂上駅からすぐ近くにある宝仙寺(筆者撮影)

石臼塚の由来(筆者撮影)
石臼塚の由来(筆者撮影)

宝仙寺にある石臼塚(筆者撮影)
宝仙寺にある石臼塚(筆者撮影)

 長野県伊那市西春近小出の深妙寺には、江戸時代から県南部の寺社に使えなくなった石臼を奉納する習慣があり、2000個の石臼を使った庭園が広がっているそうだ。小金井市中町4丁目にある小金井神社、新潟県佐渡市の羽茂小泊にある小泊白山神社にも、戦後供養し集められた石臼塚が存在する。

うどん・そばの普及のカギが石臼

 石臼登場後は、ローラーで粉にする製粉機や粉砕機が普及していったのだが、現在でも手打ちそば屋や大衆そば屋に行けば、店頭に電動式や手動の石臼が鎮座していることが多い。これがなければそばもうどんも食べることができない。

 上中里の浅野屋2代目店主の小澤勝裕さんは次のように話す。「石臼は、粉に熱が伝わらないので風味がよい。また、回転数を変えれば同じ原材料でも全く違った粉を挽けるので、自分好みの蕎麦粉を見つけられるのが石臼の面白さですね」という。

上中里の浅野屋の人気メニュー「鴨と千住葱の冷しそば」(筆者撮影)
上中里の浅野屋の人気メニュー「鴨と千住葱の冷しそば」(筆者撮影)

日本の和食に欠かせない存在だった

 うどんやそばなどの麺類に限らず、豆腐、抹茶、きな粉、天ぷら粉などは石臼なくして庶民に普及することはなかった。石臼が日本の和食を下支えしたといっても過言ではない。また、食以外の産業でも石臼は必須の神器でもあったわけである。

 そして、日本だけにあった石臼発展の背景、すなわち、禅宗の普及に石臼が使われたかもしれないこと、戦国時代には築城などの石積みの技術のある石職人が各地にいたこと、火山国で良質な石がたくさんあったこと、これらが日本の石臼を支えていたということがミソのような気がする。

 読者諸氏にもそばと石臼の話題でそば前を是非、楽しんでもらいたいものである。

参考文献

「蕎麦通 天麩羅通」著者:村瀬忠太郎、野村雄次郎、編集:坪内祐三、廣済堂文庫 廣済堂ルリエ

「そば学大全」著者:俣野敏子、平凡社

同志社大学名誉教授、三輪茂雄氏HP

木下製粉株式会社、製粉の歴史HP

「小麦粉とパンの1万年史」著者:ジョン・ストーク、ウォルター・D・ティーグ、監修・翻訳:木下敬三、旭屋出版

大衆そば研究家・出版執筆編集人・コラムニスト

1959年生。東京理科大学薬学部卒。中学の頃から立ち食いそばに目覚める。広告代理店時代や独立後も各地の大衆そばを実食。その誕生の歴史に興味を持ち調べるようになる。すると蕎麦製法の伝来や産業としての麺文化の発達、明治以降の対国家戦略の中で翻弄される蕎麦粉や小麦粉の動向など、大衆に寄り添う麺文化を知ることになる。現在は立ち食いそばを含む広義の大衆そばの記憶や文化を追う。また派生した麺文化についても鋭意研究中。著作「ちょっとそばでも」(廣済堂出版、2013)、「うまい!大衆そばの本」(スタンダーズ出版、2018)。「文春オンライン」連載中。心に残る大衆そばの味を記していきたい。

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