【京都市東山区】冥界の判事として地獄を行き来した伝承のある小野篁は遣唐副使拒否の気骨の平安官僚だった
「お精霊さん迎え(おしょうらいさんむかえ)」とも言われる「六道まいり」が、東山区の六道珍皇子で、2024年8月7日から10日にかけてとり行われました。お盆の時期に帰って来るとされる先祖の霊や精霊たちを迎える京のお盆の恒例行事です。
提灯のともる、正直おどろおどろしくもある山門を入ると、輪廻する先祖の霊を十万億土の冥界へも響き渡るといわれる由緒ある梵鐘の「迎え鐘」の前で、たくさんの人が行列を作っています。迎える鐘はこの寺で、16日に送る「送り鐘」は、寺町専門店街の三条にある矢田地蔵尊で撞かれます。
松原通は、平安時代は墓所の鳥辺山の麓でその入口付近に位置したことから「六道の辻」と呼ばれ、冥界への入り口と信じられていました。ここには、小野篁が地獄と現世の往来に使ったとされる「黄泉がえりの井戸」も残されています。入り口とされる死の六道はここ六道珍皇寺にありました。では出口はどこにあったのか。
生の六道は、実は、嵐山奥嵯峨の清凉寺、通称嵯峨釈迦堂の境内にありました。明治期に廃寺となった福正寺がそれにあたり、現在は福正寺跡の石碑だけが残されています。それにしても、京の東南の果てから西北の果てまで一瞬で移動したというのですから、ドラえもんのどこでもドアみたいですね!
平安時代の朝廷の官吏だった小野篁は、承和元年(834年)遣唐副使という重職に任ぜられます。渡唐に2度の失敗をした後、正使の藤原常嗣の理不尽なやり方に腹を立て、遣唐使船への乗船を拒否、朝廷を風刺する「西道謡」という漢詩を詠んだことから嵯峨上皇の逆鱗に触れ、官位剥奪の上で隠岐国への流罪に処せられました。その後、その聡明さ故に官僚に復帰しますが、権力に屈しない反骨精神旺盛な公卿だったと言います。
六道珍皇寺は、江戸期の地獄絵「熊野観心十界図」や幕末の絵師・森高雅筆の「幽霊画」なども有しています。清水寺へ参拝の折には、ぜひ立ち寄ってみてください。
六道珍皇寺(外部リンク)京都市東山区大和大路通四条下る 四丁目小松町595